言葉の意味って、こんなに変わる?
学校の一斉休校が発令されたころだったか。
テレビで比較的若い男性ゲストが「これを機に、本当に共稼ぎが必要かどうか見直したらいいのでは。贅沢のために共稼ぎするのをやめて、家族の絆を家で確かめ合う機会とすれば」
辺りがちょっと引いた。私も「?」と思った。
そもそも贅沢ってどのレベルのことだろう。人それぞれ、様々な理由で夫婦共に働いているのじゃないだろうか。
このゲストは「妻が専業主婦でいることがフツー、共稼ぎは子供の世話が出来ないから、この際、仕事をやめたら」と思っているみたい。
こんな考え方、80歳台の人ならまだ分かるけど……。
「共稼ぎ」も今は「共働き」と表現する方が多い。多分、「稼ぐ」という言葉のニュアンスの問題だと思う。
確かに「共働き」のほうが現代の実態を表わしている。「働き方改革」が「稼ぎ方改革」だとおかしい。何となく変だ。
それから「絆」という言葉。
これはメディアが大好きな言葉で、震災時等よく使われる。
悪い言葉ではないが、政府とかエライ人がいうと、なんか理論のすり替えに使っているみたいに思える。
自分たちの職責をどっかに置いて「家族の絆で乗り切れ」「地域の絆を見直せ」と号令かけてるみたい。(こう思う私、変?)
「絆」と言う漢字は古来「ほだし」と呼ばれ、「馬の足を縛り付ける綱。囚人を束縛する手かせ足かせ。足手まとい」という意味。(福武古語辞典)
「情にほだされ」は「絆され」と書く。
☆ あはれてふ ことこそ うたて 世の中を 思ひはなれぬ ほだしなりけれ (古今・雑)
この和歌の「ほだし」は、現在私たちが思う「絆」ではなく、「手かせ足かせ」の意味だと思う。
☆ これこそ 世を離れん際の ほだしなりけれ(源氏物語・橋姫)
この「ほだし」は「足手まとい」に近いと思う。
「絆」は「自由」の対極にある言葉。中国から伝わってきた「自由」という漢字の意味は「無縁」。(歴史を考えるヒント。網野善彦)
それを知った時は衝撃だった。
言葉の本来の意味を知ると違う世界が見えてくる。言葉の意味は自然に、あるいは訳した人によって変わることがあると気づく。
「無縁」には寂しい孤独なイメージがつきまとうが、網野氏によると「中世には多くの無縁寺があり、『西欧のアジール』に近い」
「無縁仏」も「無縁墓」もひたすら同情すべき対象ではなく、家族がいないから、という憐みを注ぐ対象でもなかったのだ。
災禍を期に「家族の絆を強めて」なんて、政治家やメディアが使うと、本来の意味を知っているとちょっと引いてしまう。
「キズナ」という言葉は、個人個人が自分の心の中で思っているだけの方がいいのかも知れない。