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掌の物語 ショッピングモール(5)

空がある限り

『子ども英会話講師緊急募集・求経験者』。週刊求人誌で見つけた広告。英会話の経験はないが応募しよう。

塾長夫人が言っていた。時給の高いネイティブ講師を解雇、日本人講師を安く使ってコロナ禍の生き残りを図っているみたいです、と。美香は履歴書を書いた。塾長が、何かに使えればと渡してくれた推薦状を添えた。

説明会は本部会議室。応募者は40人ほど。授業一コマ1000円。授業前の掃除、後片付けは無報酬。交通費、必要経費なし。教室は『○○市落窪町のマンション』。部屋の鍵の受け渡しは本部で。その交通費なし。生徒は3歳前後。おもらしをすることもある。保護者が忘れることがあるので、講師は着替えのパンツを自前で 準備すること。保護者との懇談あり。無報酬。

この条件でほとんどが脱落。残ったのは3人。試験は会議室に設えたレールを走って来る玩具の汽車を見ながら3分間英語で実況放送すること。試験官との対話はすべて英語。落ちると思ったが、美香は採用された。後の二人がどうなったか分からない。

若い女性スタッフから鍵を受け取り、マンションに行った。一回目の授業中、女の子がおもらしした。濡れたパンツをビニール袋に入れ、その子のバッグに。「新しいパンツは?」「……ギャー」女の子は泣きわめくばかり。

しまった……着替え用パンツもってくるの忘れた……「もうすぐお母さん来るから我慢してね」ロッカーにおしめはあるが、赤ちゃんじゃないからいやだろう。部屋は暖かい。ちょっとの間、パンツなしでがんばってもらおう。

「クレーム来ましたよ」本部の若い女性スタッフに叱られた。「パンツもはかせないで幼児虐待だと」「すみません」「あなた自身が替えのパンツを持って行くべきでした」「今度から気をつけます」美香は幾度も頭を下げる。

3回目の授業の日。突然、空が真っ暗に。滝のような雨がガラス窓に叩きつける。所によっては強い雨、の予報だけど、冬にこんな豪雨とは。やっぱり異常気象なんだ……。『落窪』という地名のとおり、この辺りはかなり低い。目で見るとそれほどには感じられなかったが。

近くの川が溢れたらしい。見る見る濁水が渦巻きながら溜まり、マンションの入り口近くまで膨れ上がった。

美香は本部に電話した。「こちらはそれほど降ってはいません。落ち着いてください」「水が階段まで。外階段から2階へは行けません」「落ち着いて……どれぐらいの水……」豪雨で電話の声が聞えない。

美香は電話を切った。部屋に閉じ込められたら死ぬ……。幼児5人を抱き抱えるように部屋の外へ。内階段から2階へ行こう。2階は美容院。今日は休みだ。ああ、神さま……。

美香は5人を両脇にかばいながら、内階段を上って狭い踊り場へ。泥水がぐんぐん上がってくる。辺りは空が堕ちたかと思うほどの雨。

美香は5人の幼児を抱きしめたまま立ちすくんだ。怖いと感じる余裕はなかった。どうやって子どもたちを守るか。それだけだった。どれぐらい経ったか。雨が止んだ。辺りが明るくなる……。

道路の向こう側に母親たちが立っている。美香は一人一人おんぶして、腰まで濁水に浸かりながら母親たちに子供を渡す。5回往復すると、足が立たないほど疲れた。泥まみれの下半身で這うように駅に向かう。体が氷のように冷えていた。

「クレーム来てます」「すみません……」「講師には豪雨対策を教え込め。あれぐらいの雨でなんという騒ぎかと」「……」「ニュースでは、所々雨脚が強くなったという程度ですよ」「その場にいない人には分かりません。あの場所だけ集中豪雨……」「あなた、大げさなんですよ」美香の中で何かが切れた。「わたし、辞めます」美香はマンションの鍵をデスクに置いた。

美香よりずっと年下、多分20代ぐらいの女性スタッフは血相を変えた。「辞める? 許しません。無責任でしょう。あなたぐらいの歳なら責任というものぐらい」「それでも辞めます」「3回分の謝礼は払いませんよ」「いいです。それで」「わがままにもほどが」

美香はビルの外に走り出た。最初から自分を人間扱いしてくれない場所だった。多くの講師が解雇、あるいは辞めたのはこういうことなのだ。

採用試験官も本部スタッフもパート。正社員はどこにいるのか分からない。パートの人たちに何を言っても仕方がない。あの人たちは自分がクビになるのが怖いのだ。自分に居場所がないように、私を怒鳴ったあの女性にも居場所がないのだ。

クビになっても失業者の頭数にも入れてもらえないパートの女性たち……。

昨日の豪雨が嘘のように晴れ上がった空の下、美香は無意識のうちにいつものショッピングモールに向かう。いつもの居場所で休みたい。だれに遠慮することなく、ただ、ぼんやりとレストコーナーに座っていたい。思いはそれだけだった。一筋、涙が頬を伝った。

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