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台湾引き揚げの記・生死の狭間を


はじめに 

そのとき1歳、赤ん坊だった私。赤ん坊とはいえ当事者であったことは事実だ。当時を知る人たちは年々他界。語り伝える人はいずれいなくなる。引揚船内に蔓延した疫病で落命、海に捨てられた人たち。機雷に触れ船が沈没、海の藻屑となった人たち。その名も数も不明のままだ。
以下は、私が半世紀以上にわたり家族や体験者から漏れ聞いた言葉を紡いだものである。この聞き書きを生きて故国に帰れなかった多くの御霊にささげたい。なおトップと記事中の画は姉小野寺美保子筆である。

目次

1・引揚命令
2・命ひとつで
3・瓦礫のキールン港
4・プレジデント・ウィルソン号
5・疫痢蔓延
6・出会い
7.広島・大竹港~それから 

1.引揚命令

1946年2月15日。
『在台湾日本人全員、即刻引き揚げよ』との命令が総督府から発表され、翌日、台北市大正町の教員住宅に回覧板が回ってきた。
『2月20日・キールン港に集合せよ』
敗戦、無条件降伏。在台湾日本人は全員殺される。そんなうわさが流れていた時だった。さらに命令は続いた。

『洗面道具類・衣服・下着・文房具類・毛布一人一枚・図書・玩具類・写真・現金1人1000円。それ以外の持ち出し品は即没収』

「後一週間だ」「全部、捨てて帰るの?」「写真は持って帰ろう」
家族全員、一晩中かかってアルバムから写真を剥がし袋に入れる。台湾での写真は全部持って帰ろう……。
それからそれぞれが自分の大切なものを選ぶ作業が始まった。
美術教師の父は絵筆と絵の具を数本。
長兄は、戦時中、敵国語として勉強することを禁じられていた英語の『クラウン・リーダー』を。次兄はカラーの『大百科事典』。姉は小さな雛人形とままごと用のミニ家具セット。タンスも食器棚も揃っている。母は家族の衣類と、先祖伝来の豹の毛皮を。

翌朝、道々は騒々しかった。日本人たちが家財道具のたたき売りを始めたのだ。父と長兄、次兄は売れそうなものはすべて道路に出した。一家にとって初めてで最後の商いだったが、幾ばくかのお金になった。
「お金はもって帰れない。皆で台湾料理を食べつくそう」
家族全員で屋台へ行く。
屋台は引揚間近の日本人であふれていた。明日はどうなるか分からない。とにかく食べよう。日本人たちはひたすら食べた。

長兄は、晩年、語った。
「台湾での最後の屋台……美味しかったよ。日本に帰ってからは米もなくて、歩けないぐらい腹が空いていた。毎夜、台湾の屋台の夢を見た」

明日は宿舎を出るという日、家事手伝をしていた台湾人女性がおにぎりを差し入れに来た。
「赤ちゃんは置いていったほうがいい。内地(日本)は食糧不足。台湾には食糧がたくさんある。赤ちゃんはうちで大事に育てます」
父は応えた。
「ありがとう。途中でどうなるか分かりませんが、行ける所まで連れて帰ります」「ご無事を祈ります」
女性は深々と頭を下げた。

1946年2月20日。
大きなリュックサックを背負い、一家は5年間を過ごした教員住宅を出る。
父46歳、母37歳、長兄15歳(台北中3年)、次兄10歳(台北師範第一国民小3年)、姉7歳(同小1年)、私1歳1か月。

その日は寒かった。粉雪が散っていた。住宅近くの大きな桶屋の前、台湾人の知り合いや生徒たちが見送りに来ていた。皆、去りゆく日本人たちを声もなく見ている。父は溢れる涙を幾度もこぶしでぬぐった。
あの子たちといっしょに登山した。バス旅行にも行った……。

開戦前、日本政府は軍国少年を大勢育成する必要があったので、台湾の子供たちも日本人の国民学校に入れる方針を取っていた。父は戦争開始一年前の1940年、台北に新設する台北四中の教師として赴任を下命され、同僚たちと共に台湾の地を踏んだのだ。
当時の一般日本人には日本が台湾を占領しているという意識はなかった。日本の一部と信じて疑わなかったのだ。一億総洗脳状態といえよう。

父は日本人だけでなく台湾人の少年たちも受け持った。彼らが学力選抜されたのか、財産、家柄で選ばれ日本人学校に入ったのかは父も知らない。父は日本人の生徒も台湾人の生徒も分け隔てなく自宅に招き、夕食をふるまった。母は生徒を接待する料理で大忙しだった。
そのわずか一年後、日本が太平洋戦争に突入するなど誰も予想もしなかった。

1941年12月8 日。
長兄が教室に入ったら教壇に銃が置かれていた。入って来たのは、先生ではなく軍服の軍人だった。辺りは静まった。何か異変が起きたことは生徒たちにも分かった。
教壇の上の銃、それが兄にとっての戦争の始まりだった。

家に帰ると、住宅街のあちこちに人だかりが出来ている。「アメリカと戦争になった」「ほんとうか」「日本軍が真珠湾を全滅させたとラジオで」
次兄は「鬼畜米英(きちく・べいえい)」と叫びながら銃を撃つ真似をしていた。「にいちゃん、鬼畜米英ってどういう意味?」「アメリカやイギリスは鬼畜生だということだ」「ほんとう?」
長兄は一瞬言葉に詰まったが、「そうだ」とつぶやいた。

連日、ラジオでは日本軍の勝利が伝えられた。勝った、勝った、と人々は酔い痴れる。子どもたちは『軍国少年』『軍国少女』となり、女子学生も竹槍を持って軍事訓練に狩り出された。
戦争中とはいえ、台湾は食料が豊富だった。魚も果物も米もふんだんに出まわっている。一年で日本の大勝利、と思っていた戦争は、しかし、5年近くも続くこととなる。
戦争が進むにつれ、多くの台湾人青年たちも動員され南方の島々に送られた。彼らは誰一人生きて帰っては来なかった。

1945年5月20日。
アメリカ軍の無差別台北爆撃により、台北の街は壊滅状態、市民3000人が死亡。同年8月広島と長崎に原爆投下。8月14日、日本無条件降伏。
そして今、引揚命令の下、50万人近い在台湾日本人が日本本土に送還されることになったのだ。 

2・命ひとつで

リュックサックを背負い、毛布をかつぎ、水筒を肩に、行列は台北駅へ向かう。道には台湾の人たちが日本人の群を困惑の表情で見送っていた。半世紀の長きにわたって日本に統治され、日本名を付けられ、日本語を話すように教育された彼らの戸惑いは大きい。日本の統治から解放され、戦争から解放された歓びも大きかったのだが……。
あちこちに銃を持った国府軍兵士が立っている。兵士たちは腰に鍋や窯をぶらさげて裸足だ。銃が無ければ浮浪者にしか見えないような姿だった。
「僕たち、撃たれる?」長兄の言葉に父は「見張っているだけだ」とささやく。
兵士たちは発砲することはなかった。黙って行列を見ていた。
母は私をおんぶして両手に大きな荷物を下げていた。
やっぱりこの子は置いて来た方がよかったかも知れない、そんな思いが母の脳裏をよぎる。誰も、明日がどうなるのか想像すらできなかった。
日本人集団は羊の群れのように進む。
静かな行列に雪が降りかかる。
長兄は覚悟した。俺がいちばん年上だ。父さんを助け家族を支えなければ。次兄は子ども心に思った。日本は絶対負けないなんてウソだった。
まだ幼い姉は思った。もう軍事教練はない。よかった……。姉は、起立して軍人の話を聞いているとき、顔に止まった虫をはたいて、叩かれ、それ以降、登校拒否になっていた。小学一年生でも軍事教練では叩かれた。姉にとって敗戦は恐怖の軍事教練からの解放だったのだ。

道路のあちこち、焼け残った塀や家の壁に『以徳報怨』と赤い絵の具で書かれた畳一畳ぐらいの紙が貼られている。
「なんて意味?」興味しんしんの弟に兄は、
「怨みを仕返しでやり返すのではなく、徳で返しなさい、という意味だ」「徳って?」「黙って歩きなさい」と父が厳しく言った。この言葉は、『怨みに報いるに徳を以ってなす』という意味で、論語の言葉だ。

  怨みから暴力をふるってはいけない。慈悲という徳を以って接しよう。
  我々は横暴非道な軍閥のみを敵と考える。我々は報復してはならず、   
  まして無垢の人民に汚辱を加えてはならない。慈悲を以って接するのみ
  である。

まだ大陸にいた蒋介石は全中国人に向けて論語を引用してこう演説した。
台湾内で日本人が暴行を受けることはほとんどなく、死傷者のほとんどは引揚船の沈没と船内で発生した疫病の蔓延によるものであった。

また当時の様子を中華日報は次のように記している。
   在台の日僑は、数十年来、彼らの心血を、台湾建設事業に注いできた
   し、また我々の良き隣人であったといえよう。彼らは私物を残したま
   ま帰ろうとしている。今、我われも人情の点からいって、彼らにささ
   やかなりとも御礼を贈り、故郷に持って帰らせるのが本当ではなかろ
   うか。そしてそのもっとも望ましいのは、彼らに精神的なお土産を贈
   ることである。彼らが故郷に帰って、今昔の想いに心を痛ましめたと
   き、台湾のうるわしき風景、わけても台湾600万の民衆が清明心に充
   ち、礼節あり、情熱ある国民であることを想起せしめることである。
                       (中華日報。日付不明)

台北駅は瓦礫となっていた。爆撃を逃れたソテツの樹が雪をかぶって立っているだけだ。それでも汽車は動いている。本土に送るために備蓄していた石炭が豊富にあったのだ。
ぎゅうぎゅう詰めの車内には話し声ひとつなかった。赤ん坊の私も泣き声ひとつたてなかったという。汽車は煙をあげて動き出す。台北駅は次第に小さくなっていった。

3・瓦礫のキールン港 

1時間以上かかっだろうか。汽車はキールン市に入った。キールン市は三方を山に囲まれた美しい都市で、台湾で4番目に大きかった。煉瓦つくりの税関や銀行、商店が建ち並んでいた街は爆撃で瓦礫の山になっていた。
キールン港が海軍基地だったので攻撃目標にされたのだ。

列車から降りた日本人たちはコンクリートや地面の上に座らされた。「船が来るまでここで待て」係員がメガホンで叫ぶ。
「乾パンと水を配る。皆、並べ。子供も並べ。1人1人、水筒をもってもらいに行け」
引揚者の中には多くの赤ん坊がいる。粉ミルクなどない。赤ん坊たちは何を飲んだのだろうか。

大人になってから両親や兄姉に聞いたが、誰も覚えていなかった。

キールン港の広場に集められた人は2000人は下らない。消毒していない柄杓、汚れた水筒、汚い手で握りしめた乾パン。コンクリートの上の雑魚寝。2日後、腹痛、嘔吐,下痢でバタバタと人が倒れた。
「赤痢だ」「疫痢も同時発生したらしい」
一年程前から台湾で流行っていた疫病はしばらく身を潜めていたが、キールン港で息を吹き返したのだ。ついに死者が出た。
「今にキールンは死体の山になる」
係員は蒼白になった。医者が駆け回り、「死亡確認」と告げる。ハサミで死者の髪の毛を切って、傍の家族に渡す。あちこちで毎日のように「死亡確認」の声。
多くの老人、子ども、赤ん坊が、港で船を待っている間に死んだ。

私は、教員住宅にいる時は、ふっくらした色白の赤ちゃんだったらしいが、キールン港で待機している間に、しなびたごぼうのようになっていたとか。

港前の広場から次々に遺体が運び出される。どこへ運ばれるのか誰も知らない。赤ん坊の私は目を閉じ首をだらりと後ろに垂らし、それでも息をしていた。

キールン港で落命した人の名前の数も不明である。
50万人の日本人を3カ月で日本に送還させるという命令を誰が出し、誰が責任者なのか、誰も知らない。ただ生きたいがために、回覧板一枚に従ってここまで来たのだ。 

両親も兄も姉も台北の街で食べた最後のご馳走を毎日夢に見た。その記憶だけが生きる力だった。
「内地に着いたら真っ白な米の飯を食うぞ」隣でささやく声。「故郷には農家の親戚がいる」「あったかいご飯がたらふく食える」
話し声に長兄はよだれを飲みこみ目を閉じた。瞼の裏に湯気のたった水餃子が浮かぶ。
本土では人々が米を奪い合い、戦災孤児が道端で餓死しているなど、食糧豊かな台湾にいた日本人には想像すらできなかったのだ。
台湾赤十字の差し入れのおにぎりが一回だけ配られた。2千人の群衆には一滴の雨のようなものだ。屋根の吹っ飛んだ建物で満天の星を見ながら今夜も食べ物の夢を見るだけだった。

4・プレジデント・ウィルソン号

新たなる時・ 小野寺美保子画

1週間目。係員たちは血走った眼を見合わせた。
「船が来た」「赤痢患者も乗せるのか」「置き去りにはできない」
上層部から指示が来た。“何が何でも全員乗船させよ”。
「全員並べー」
メガホンで係員が叫ぶ。皆、改札のような所を通らされた。引揚船ははるか沖に停泊している。港で疫病が流行っているから、出来るだけ遠くに停まっているのだ。

ジャンクと呼ばれる小さな艀(はしけ)に分散して乗せられた。数えきれないほどのジャンクが船着き場と沖合の船の間を行き来する。乗り込んだ人の重みで半分沈みそうになりながらジャンクは進む。
「子どもが落ちた」
叫び声が飛んでも漕ぎ手は手を止めない。暗くなるまでジャンクは沖の船と船着き場を往復した。
ジャンクが船体に横づけになると、甲板からぶら下がった縄梯子でよじ登る。子供も老人も自力で上る。誰も手を貸す余裕などない。

「途中で海に落ちた人はどれぐらいいたの」
大人になってから聞いた私に長兄は「多分、おおぜいいただろうな」「お母さんは私をおんぶしていたの」「誰がおんぶしていたのか覚えていない」「私、よく生きていたね」「奇跡としかいえない」。

私は奇跡の生存者だったのだ。 

外地からの引揚げに使われた船はすべてアメリカが無償で供与してくれた『リバティー型貨物船』だ。第二次世界大戦時、アメリカで大量生産された1万トン級の大型軍用貨物船で『リバティー型』と呼ばれた。
重油を焚くピストン式蒸気船で、膨大な数が製造され、物資や兵士がアメリカからヨーロッパに輸送された。
アメリカ大統領ルーズベルトが「この船はヨーロッパに自由をもたらす」と演説したことから『自由』つまり『リバティー』と呼ばれるようになったのだ。
粗製乱造のため、事故が続出。2714隻製造され、200隻以上が事故で沈没した。

その船が台湾、満州からの引き揚げに使われたのだ。
操縦するのは元日本海軍兵。アメリカの命令により、船には医師が一人乗船していた。
船にはそれぞれ名前があった。
台湾引き揚げ第一陣が乗った船の名は『プレジデント・ウィルソン号』。

着いた順に船底へ突き落された。2千人以上の人たちを乗せるのだ。容赦なく突き落とす。そうしないと全員乗り込めるのにどれほど時間がかかるか分からない。
2月28日、引揚船は汽笛3声、動き出す。キールン港が遠くなる。 

次兄は時折話してくれた。
「あの船の名ははっきり覚えている。俺たちの次に出航した船は機雷に触れて沈没、全員海の藻屑になった。ウィルソン号は俺たちを生きて本土に帰してくれた」

鉄板を敷いた床に毛布を敷いて皆座り込んでいた。貨物船だ。自分が貨物になったと思うしかない。食事は朝夕配られる雑炊だけ。甲板に並んでアルミの椀に柄杓で配られる。赤ん坊には米のとぎ汁が配られた。私は米のとぎ汁だけで生きていたのだ。 

5・赤痢蔓延

船が動き出したその日のうちに、あちこちで嘔吐と下痢の音がした。黒いカバンをさげた医師が走り回る。キールン港で見た光景だ。
「俺たち、生き延びられるかな」長兄がつぶやく。「絶対、俺、死なない」次兄が応える。
プレジデント・ウィルソン号は動く伝染病棟と化した。あちこちに死臭が漂う。船内は巨大な棺桶だった。
「また死んだ」「子どもだ」ささやく声、微かな嗚咽。
父は覚悟した。全員、生きて帰ることはできないだろう……。

赤ん坊が真っ先に、そして幼い子供が死んでゆく。
亡骸は甲板に造りつけられた滑り台のような板から海に落とされた。絶え間なく何かを落とす音が聞こえた。バシャ―ン バシャ―ン.
そして汽笛が3声。ボー ボー ボー
死者にささげるものは汽笛だけだった。
海に捨てられた亡骸のまわりに魚たちが集まって来た。それが日常だった。東シナ海には1万個以上の機雷が落とされている。接触したら終わりだ。
船は蛇行しながら進む。進みながら亡骸を海に捨てる。死者を悼み汽笛を鳴らす。
ボー ボー ボー
その汽笛もやがて聞こえなくなった。

姉にとって、船内での記憶は便所だけだった。(当時はトイレという言葉はない。英語など使えない時代だった)

後日、姉は語った。
「便所は船尾に突き出た板のまわりを板で囲っただけの狭い場所だった。しゃがむと板の隙間から海が見えた。板の隙間から落ちたら死ぬ。サメのエサになる。でも1人で行ったよ。おしっこをして板の戸を開けて飛び出した。戸が開かなくなったらどうしようと思って怖かった。今でも旅行に行ったとき、トイレに1人で行くのは怖い」

2000人の乗客に便所は何か所あったのだろう。体が不自由で使えない人、海に落ちた人もいただろう。すべて闇のなかだ。

人は忘れたいことは忘れる。忘れないと生きてゆけない。しかし、姉は、子供ながらその記憶の断片を忘れることはなかったのだ。

船の倉庫で大勢がひしめき合っている。おしめを干す場所などない。私は排泄物にまみれた糞尿袋そのものだったに違いない。

6.出会い 

出航して4日目。
10歳の次兄がぐったりしてきた。起き上がれない。食事をとりに行けない。見る見るうちに顔色が蒼白になり、口もきけなくなった。父が背中をさすり続け、呼び続けた。次兄は翌朝には目の周りが黒ずんできた。
「もうダメだ」「水葬してもらいなさい」「体が腐らないうちに」
父は泣きながら我が子を抱いて甲板に出た。死ぬ前にせめて空を見せてあげよう。せめてきれいな空気を吸わせてあげよう……。

東シナ海はコバルトブルーに輝いていた。見わたす限り何もない青の世界。父は突然リュックサックに入れて来たコバルトブルーの絵の具を思い出した。ここでこの子が死んだら私は二度と海の画は描けない……。

人の群をかき分け、よろめき歩いていると、すれ違った真っ白な船員服の男が足をとめた。
「もしや鮫島先生では」
「あなたさまは……」
父の前に船員服の男が立っていた。
鹿児島市で教員をしていた時に受け持った陳という生徒だった。台湾から鹿児島に留学していた優秀な生徒だったのでよく覚えている。
「息子が死にそうなんだ」
陳さんは次兄を抱き上げた。
「船長室に」
陳さんは走り出す。父は後に続く。
船長室のベッドで船医がペニシリンを打ってくれた。高級船員しか使えないアメリカの特効薬だ。次兄の顔に見る見る血の気が戻った。すごい薬だ。こんな薬を発明した国と日本人は竹槍で闘っていたのだ……。
父は声もなく、息子の顔色が蘇るのを見ていた。
「息子さんは明日の朝まで私の部屋で。先生もお傍に」
父は陳さんに向かって両手を合わせた。
「君はどうしてこの船に」
「あれから江田島の海軍学校に行って一等航海士になり、今は引揚船の操縦に携わっています」
「立派になって」
父は陳さんの手を握りしめ涙をこぼした。

次兄は後に語った。
「真っ白な制服、まぶしかった。かっこよかった。コーヒーも飲ませてもらった。あそこでオヤジが陳さんとすれ違わなかったら俺はこの世にいない。ペニシリン一本が俺を地獄の3丁目から引き戻した」
引揚のことをほとんど語らなかった父もこのことだけは毎日のように口にした。
「息子の命の恩人だ。足を向けて寝ることはできない」

私はその話を聞くたびに思った。次兄が生死をさ迷っている間、私も生死の狭間にいたはずだ。赤痢菌蔓延の中をわずか1歳で……。
でも、誰も私のことは心配していなかったのだ。死んでもいい子、いや、死んで欲しい子どもだったのだ。
その思いは長い歳月、私のトラウマになっていた。家族の誰にも言わなかったが。 

7.広島・大竹港 

鹿児島港は軍関係者用。舞鶴港は満州引揚者用。台湾引揚者は広島の大竹港に指定された。後の南極観測船『宗谷』も二度、引揚作業に携わって舞鶴港に着岸している。
終戦後、日本本土に続々と引揚者が帰ってくる。
国内は深刻な食糧不足。数百万人が餓死するだろうと予測された。
アメリカは大量の穀物を日本に支給した。家畜用の飼料だが、それでも命の綱にはなった。
粉ミルク、干し肉、そんな貴重な食料は大金持ちや権力者、アメリカ関係の施設で働く日本人だけが入手できた。
米は配給制度だったが、闇米が当たり前のように流れていた。
法律を破ってでも闇ルートの米を食べないと飢死する。そんな中、闇米に手を出さなかった判事が餓死したというニュースが流れた。
着物や宝石を持っている人は農家に売り、一握りの米を手にした。
売るものがない人は犯罪に走った。
多くの戦災孤児が餓死したり、盗みを犯した。一粒のコメのために……。
引揚者が上陸する港界隈の不安と混乱は尋常ではなかった。

広島県大竹市。
自分たちの食糧もないのに、何十万人の引き揚げ者の食糧なんて準備できない。大竹市でも激しい抵抗が起こった。
「食糧なんかない」「だが、引揚者が飢死したら」「町は死体の山になる」
町会長たちは反対派の説得に日夜駆け回る。
「引揚者たちが何とかそれぞれの故郷に帰って欲しい」「援助するのはその一心です」「どうか協力してください」
町民は決意した。引揚者も港周辺の住民も運命共同体だ。自分たちの町が引揚者の屍の山になるぐらいなら、食べ物を供出したほうがいい。
人々は乏しい食料を供出、臨時の遺骨預かり所を準備し、仮の銭湯や理髪店を出した。
住民は労力奉仕に駆け回り、役人は上層部に掛け合い、引揚者のための特別列車が出されることになる。引揚者証明書があれば全国無料で乗れる。

引揚船に乗っている人たちは国内のそんな騒ぎを知らない。
キールン港を出て6日目。遠く開聞岳の影が見えた。
「本土だ」「帰ってきたぞ」
船内に泣き声があがる。乗船名簿などないから、キールン港に集められてから今までに何人死んだかは分からない。生きて帰って来た、生きて……。
開聞岳の姿に人々は泣いた。

しかし、船員たちの緊張は高まる。
「ここから命がけだ」
日本近海に投下された機雷は1万個以上。そのうち5000個が関門海峡に集中している。陳さんが船底に来た。最後になるかも知れないと思ったのだ。
「先生、きっと生きて、また会いましょう」
「きっと会おう」

プレジデント・ウィルソン号は無事に豊後水道に入った。普通ならキールン港から二日で日本に着く。だが、途中で命尽きた人を水葬し、機雷を避けながらの航海だ。大竹港に着いたのはキールン港を出て一週間後だった。

港に着いてもすぐ下船できるわけではない。
乗り込んで来た係員が持ち物の検査、目視による健康検査を行う。疫病患者が野放しになってはならない。
「病気の疑いのある者は呉海軍病院に入院」と命令が下る。
米軍の爆撃を逃れ、「原爆被災者の収容」と「引揚者病人収容施設」とされていた病院だ。
係員が病人を選別。父と次兄は3日間入院させられることになった。
台湾を出てから初めて家族が別れ別れになる。
長兄と赤ん坊の私を背負った母と姉だけで列車に乗って鹿児島に帰るのだ。
「すぐ後から行く。がんばるのだ」
父は長兄の手を握りしめた。長兄はうなずく。
港のすぐそばに『大竹引揚援護局』と書かれた看板が下がっている木造建物があった。
入口の両脇には『御苦労様でした』『大竹引揚援護局職員一同』と垂れ幕がかかっている。
全員、建物の脇を通り広場に集められ、座らされた。全身に白い粉をホースで吹きかけられる。ノミやシラミを殺すための殺虫剤DDT。日本人が初めて人体に使った殺虫剤だ。

「赤ちゃんの私もDDTをかけられたの」「覚えていない」
家族の誰ひとり、赤ん坊の私がその時どんな状況だったのか覚えていなかった。私は忘れられた存在だった。

全身をDDTで真っ白にされた大群衆は大竹駅に向かう。港から駅までほぼ4キロ。憔悴しきった体に大きなリュックを背負い歩く。

長兄は語った。
「どうやって歩けたのか不思議だ。おふくろは美智子を背負っていた。俺と妹は4人分のリュックを背負っていた。連結部分まで人がすし詰め、窓から乗り込む人、乗車口にぶら下がる人もいた」「食べ物はどうしたの」「覚えていない」「水は」「覚えていない」
トイレなどない。女の人はどうしたのだろう。ミルクのない私はどうやって生き抜いたのだろう。

聞きたいことは山ほどあったが聞けなかった。兄は忘れることによって生きぬいたのだ。思い出したくもないのだ。
それでも聞きたかった。現実に子育てをしてみて、一週間、乳飲み子がこんな状況で生きられるとは思えなかったのだ。

母に聞いた。「私は何を飲んでいたの」「覚えていない」
母は絶対に覚えているはずだ。しかし「覚えていない」の一点張り。母は心に岩の扉を立てていた。
兄の晩年に私は聞いた。聞かずにはいられなかった。
「本当は覚えていたのでしょう。あの時、中学3年だったから。なぜ、話してくれないの」「話しても分かってはもらえないから」
兄は遠くに眼差しを漂わせた。
後日、次兄がぽつんと漏らした。
「兄貴は、画を描くしかできない、優しいだけのお父さんに代わって、家族を守ったんだと思うよ。だから話したくないんだ」

石炭で走る列車は何度も立ち往生。煤で顔が真っ黒になった。列車は3日かけて鹿児島駅に着いた。焼け野が原の向こうに錦江湾がきらめき、その向こうに桜島が淡い空色に光っていた。1週間後、父と次兄が鹿児島駅に着いた。

父は後日語った。
焼け野が原と化した街を見て思った。焼いた食パンにバターを付けて食べたい、もう一度食べたい。だが、もう二度と食パンにバターをつけて食べられる日は来ないだろう…… 。

この聞き書きが完全に正確なものだとは思わない。話す人の記憶も薄れ、聞く私の受け取り方も間違っていたかも知れない。
台湾からの引き揚げは満州にくらべれば恵まれたものだったらしい。慈悲をもって送り返してくれた台湾の方々のおかげだと思う。
それでも多くの犠牲者が出た。船が機雷に触れ、全員海の藻屑となった事故だけでも死者は2000人は下らないだろう。戦争の残酷さは決して過去のものではない。

 それから

                       想い・ 小野寺美保子画

陳さんとはその後、父と次兄は東京で再会を果たした。次兄が大学を卒業、就職が決まった年のことだ。

引き揚げから30数年後、
台湾から一通の国際郵便が届いた。父が教えた台湾人の生徒たちからだった。生徒たちは、引っ越しを繰り返した父の足跡を長い歳月をかけて辿り、埼玉の地まで到達したのだ。

『先生にもう一度お会いしたく台湾旅行に招待いたしたいと思います』 

父は手紙を握りしめて泣いた。暖かい春の午後だった。    

 

 

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