父の戦争論 菅原千恵子
兄弟の中で父が末っ子だったこともあり、父の兄たちの息子たち、つまり従兄弟たちなのだが、彼らはすでに東京で学生生活を送っていた。それが姉が大学生になるや、上京の行き帰りにはたいてい泊まってゆくことが多くなった。律儀に。世の多くの学生がいわゆる学生服を着ていた時代である。彼らは東京の新しい話題や、生活の情報を、体験者として伝えてくれるのだ。いつのまにか私の家が、華やいだサロンのようになっていて夜遅くまで紅茶や果物、時にはウイスキーなどをのみながら、姉や従兄弟たちは話し込んでいる。東京の風俗、大学での出来事、流行のロカビリーやフラフープなど、どれだけでも話題は尽きなかった。
横浜の大学に通っているのに、わざわざ、女子学生が多く住んでいる東京都内に下宿したり、満員電車に体当たりをして、乗客を電車の中に押し込むアルバイトをしていることとか、地方都市では考えられない話題で一時にぎやかになる。東京にどんどん人が集まりだし、東京オリンピックに向けて、都市の整備に、地方からどれだけでも人材がかき集められていた時代だった。アルバイトも、都会ならではというものがあって、修学旅行の生徒を泊めるため、大広間に布団を敷く仕事というのもあったらしい。
夜遅くまで姉たちと従兄弟たちの楽しいおしゃべりが続き、早々と寝かされた私は、自分も早く大人になって、文学論などをディスカッションしたいものだとどれほど暗いふすま越しに思ったことだろう。従兄弟たちに対して父はひどく寛大だったし、また息子を持たなかったこともあったためか、本当に可愛がった。ところが、彼らが日本は間違った戦争をしてしまったという意見をいおうものなら、それを境に激しい論戦が繰り広げられるのが常だった。
父は、自分自身は戦場にいったわけでもないので、その悲惨さを何一つ体験していない。それだからこそというべきか、父は、ある意味で戦争は必要悪なのだという、一貫した理屈を持っていた。動物を長く観察してきたところから導き出された意見だったのかも知れない。種が多くなれば必ず自然淘汰が起きて、生き延びるものとそうでないものとが生まれる。動物は必ず、自分たちで数のバランスをとるようになっているのだから人間といえども、その自然界の仕組みから逃れることはできないのだ。暴発するように増え出した日本の人口が、生きるために広い中国大陸に流れていったのもある意味で仕方がなかったし、経済封鎖を敷かれてしまえば、生きるためには国家として戦争してでも国民を飢えさすことはできないと考えるのが当然ではないのかと、従兄弟たちに詰め寄る。
それでも若い従兄弟たちは違うとがんばる。これだけは妥協できないとばかり、父とやり合うのだ。何のために多くの犠牲者を出して、負け戦と知りながら、ここまでやらなければならなかった戦争なのか、戦争で一番ひどい目にあうのはたいていどこの国でも、一般の名もない市民であり、決して政治家や、軍の上層部の人達ではない。将棋の駒のように、あるいは虫けらのように彼らは名もない人達を操って戦争というゲームをし、自分の満足を満たしたいために、戦争を招き寄せただけなのだ。
「もし叔父さんの考えるようなことで決めつけられるとするならば、日本に民主主義は無いも同然じゃあありませんか」
「君らには君らの考えがあるだろうけれどもさ、今の日本がこれほどおかしくなってきたのには、君らのお父さん、まあ、おれにしてみれば兄貴だけれども、あの人達の無責任な方向変換が根底にあると思っているのさ。戦前と戦後の教育の違いといったら、君、考えられんことだよ。戦争に負けた途端、今までの教育は間違っていただなんて、俺にはどうよく解釈しても理解できないよ。そうした混乱を引き起こしておきながら、手のひらを返したように、これからは民主主義の時代だなんて、よくゆうよ。兄貴なんか教育委員会にいて、その先頭に立っていたんだろうからさ、今日の教育の乱れは、兄貴たち教育者にその責任をとってもらいたいもんだ」
「いやあ、叔父さんも言いますね。そりゃあ、確かに変わり身の速さは、ちょっと恥ずべきところもあるけれど、間違いに気づいて直すことに何の躊躇がいりますか。僕は、むしろ、間違いだったと、皆の前ではっきり謝った教育者たちを立派だと思いますよ」
父のすぐ上の兄は、教育委員会に勤めていて、多くの教師の指導をしていた。それなのに、教師たちが、勤務評定反対運動を起こしてストライキなどをしていることに、父は教師がストライキをするようでは世も末だとかねてより嘆いていたのだったが、そのことをさして、自分の兄の批判にまで及んでいったのだった。
父は愛国心なら誰にも負けないと自負し、国のためならば喜んで身を挺するとよくいっていた。男として、何かのために死ぬことこそ最も美しい死に方であるという、父なりの美学があったのだろう。「忠君愛国」ということばにも、ためらうことなく酔うことのできる人だった。「明治天皇」という映画が上演されたときには、こっそり一人で見にゆき、滂沱の涙を流して見ているうち、財布ごと全部お金をすられ、歩いて帰ってきたというエピソードの持ち主でもあった。
「あのような、感動の映画を上演しているときに、よこしまな考えを持った悪い奴がよくもいたものだ」
と父は嘆いた。
このころ勤務評定反対のストライキは子供たちにまで伝染し、スクラムを組んで、練り歩く遊びが子供たちの間でも流行っていた。そのことも、父の嘆きを大きくしていた。常に子供の模範として存在しなければならないはずの教師が、ただの人になってしまってはいけないと、テレビにストライキをしている教師の姿が映し出されるたび、私たちに向けて父の説教が始まるのだ。
「まいったなあ、叔父さんのような考え方をしていたら、まるで戦前に逆行してしまいますよ。僕は、二度と、あのような戦前の間違いを子供たちに伝えるつもりはありません。僕自身も、たとえ国のためといえ、戦場にゆくつもりはないし、僕らの回りにいる学生たちだって、皆そう思っていますよ」
「君らは、(聞けわだつみの声)を読んだことあるかい。みな自分たちの死は、祖国に残された姉妹や父母の未来のための引き換えとしてあるのだといって、そのためならば無駄な犬死なんかではないと、潔く死んでいったんだ。だから、次の世の正しい繁栄を願うのが、彼らに報いる一番の方法じゃないのかい」
「もちろん僕らだってそう思いますよ。叔父さんは、そのために愛国精神だとかを持ち出して、危険なんですよ。まかり間違えば人権を侵害して、多くの人達を戦争に巻き込みかねないじゃないですか。戦争をしなくても、平和を維持する方法はあると思うんだけど。国連だってそのために努力しているんだもの」
「おい、おい、そんなことをいう奴は泊めてやらんぞ。一宿一飯の恩義ってものがあるってことを忘れるなよ」
「それをいわれちゃ、もうなにも反論なんかできませんね」
こんなふうにしてたいてい夜の論戦は終止符を打つ。私は父の意見に、従兄弟たちがどんな反論をするか、おもしろくて聞き耳を立てていると、眠ることができなくなる。どちらにもそれなりの言い分というものがあるのだと、私にはどちらの意見を聞いても双方とも本当のような気がして困った。家に帰れば、乾いた夏の畑に水やりの仕事が待っているけれど、叔父の家で三食付きで議論三昧の日が二、三日あるというだけで息抜きができるという者もいた。父は、そうした理由も全部知っていた上で、
「お母さん、家の玄関に、当方、簡易宿泊所という看板をかけたらどうだろ」
などといって、みんなを笑わせていた。それほど、この頃の私の家は、誰か彼かが出たり入ったり泊まったり、突然やってきた人に、「何もないけど、どうだや、ご飯を食べてゆきなよ」と父が声をかけたことから一緒にご飯を食べることになったりと、この頃が我が家の最も活気にあふれた、賑やかな日々だったように思う。
団欒は少しづつ薄れながらも、「千客万来」があったために、私はやってきたたくさんの人を通して、様々なことを知り、経験を深めていったのだ。それと同時に、父が最も忙しい時期でもあったと思う。
朝、起きてみると、父の姿が見えないことがあった。
「お父さん、どこに行ったのっしゃ? どこにもいないけど」
私が母に舫ねると、母がいうには、今日の午前二時頃、若い獣医がやってきて、乳房炎にかかった乳牛のミルク缶がたった一つ交じっていたことから県全域から集めた牛乳を全部捨てなければならなくなったというので、出かけたというのだった。その当時まだ私の家には電話は無くて、何か用事があるときは洗濯屋の電話にかけてもらうと、私の家にベルがなって知らせられるようになっていたのだが、あまりにも変な時間だったために、若い獣医がわざわざオートバイに乗って知らせに来たのだという。
父は、その日の夕方すっかり疲れはてて帰ってきた。
「どうだったの、大丈夫、うまくことがすんだのすか?」
母は、待ち切れないように、父に聞いている。父は、とにかく風呂に入りたいというので、母が急いで風呂を沸かしに行った。その間、父は横になって少し眠った。風呂から上がり、疲れが少しとれたのか、夕食の時には、父がいろいろ話してくれたので、私たちはテレビを消して、父の話に聞き入った。
「前から、様子がおかしいと思う乳牛の乳は絶対出してはいけないとよく言い聞かせていたんだが、少しでも出す乳量が減ると、開拓農家の人達も生活がかかっているから減収になるのを避けたかったんだろうな。しかも、乳房炎にかかっているということがわかると治るまで出荷停止にされるもんだから、それを恐れて出したらしいんだ」
「乳房炎になったらなんでだめなの?」
と私は聞いた。父は、ご飯を食べ終え、母が差し出すお茶を飲みながら続けた。
「そりゃあそうだよ。雑菌の交じったミルクを出すと、他から集めてきた牛乳と一つにされてどんどん牛乳の量が増えてゆくだろ。ところが、どんなにわずかな雑菌といえども雑菌は牛乳を栄養として繁殖しているんだから、集められた大量の牛乳が全部使い物にならなくなってしまうのさ。今回も、七百五十リットルもの牛乳を捨てなければならなかったんだからな。たった一件の家で出した牛乳で、何でもなかった家の供出したものまで全部だよ。もったいないことだな。しかも、一件のところを除いて他の供出農家には、きちんとその分の代金は払わなければならないのだから。今、組合は厳しい状況にあるのに、困ったもんだよ」
「だけど、どうしてお父さんが呼び出されるの? 夜に。違う人じゃだめなのかな」
「お父さんは、生産指導の仕事をしているんだから、指導が行き届いていないということで、それはお父さんの責任になるんだよ。だから仕方がないんだ。朝だろうが夜だろうが、行って対策を考えなくちゃならないんだな」
父はこの失敗を繰り返さないためにより徹底した指導をしなければと考えて録音テープを作ることにした。大きなリールがゆっくり回る大きくて重いテープレコーダーだった。それをアナウンサーのように吹き込む役目は一番上の姉が任され、犬がちょっと吠えたといっては止め、私が笑ったといっては止めして、操作だけでもかなり時間のかかるものであった。
私はといえば珍しいテープレコーダーを一人でやってみたくてたまらない。父が、私に任せてくれないものかと念じているのに父と姉は雁首を揃えてああでもないこうでもないと仲良く録音している。それはちょっぴりおもしろくない。姉だけが必要とされているみたいな気がして、私は自分から、スイッチを止めるとか入れるとかの役を申し出てやらせてもらった。何度かやり直しのために同じところを繰り返し読むので、私まで暗記してしまい、現在でも、乳牛のためにやる餌のことや、出産の後の処置の仕方をどうすれば良いかなどを知っているのはこの時繰り返し聞いた朗読のおかげである。
家族総出で録音したテープは、それぞれ開拓の酪農農家の集会や、学習会に貸し出され、意識改革に役立てられるように、そして、誰でもいつでも勉強ができるようにという最初の目的通り、数年間に渡って新しく酪農を志す人達によって使われ続けた。乳製品の需要がうなぎ登りに伸び続け、大手の乳業会社が、酪農家の引き抜きに動き始めたのもこの時期である。供出する牛乳の単価を釣り上げ、開拓部落全部を自分たちの会社の専属契約にさせるということは日常茶飯で、そうした情報が流れてくると、父は、夜でも昼でも家を飛び出して、何とか踏み止まるように説得に出かけるのだった。