ネズミ谷のキツネ 帆足孝治
私の母は大分県日田郡五馬村(ひたぐんいつまむら)の出口 (いでぐち)というところで生まれ、どういう因縁か豊後森町で育った父と結婚した。そんな田舎で育った母だったから空気の悪い東京での生活は合わなかったのだろうか、まだ若かったのに胸を病んでしまい、いろいろ手を尽くしたのにその甲斐もなく私を産むと間もなく中野療養所というところへ入って死んでしまった。
それで早くに母をなくした私が哀れに思えたのであろう、私は子供のころ、よくその出口に連れて行かれ、そこの人達皆んなに可愛がられた。豊後森も田舎だが、その頃の出口というところはもっと田舎だった。山奥だっただけに、その辺りの谷川には森川にも棲まない珍しいエノハやアブラメがいっぱいいて、私にとってはまだ未経験の楽しいことがいっぱいあった。
今でこそ、わざわざ歩かなくても日田からバスやタクシーで楽に行けるようになったが、私が子供の頃は豊後森から汽車で天ケ瀬という温泉のある駅まで行き、そこから山道を四里以上も歩いて行かねばならない不便なところだった。天ヶ瀬駅を降りてしばらく日田方向に線路に沿って国道を歩くと、やがて線路は道路から離れて左にカーブして鉄橋を渡り、トンネルに入っていく。鉄橋とトンネルが続くこのあたりの景色は、蒸気機関車によく似合う鉄道ファンには絶好の撮影場所で、最近よくビデオなどで紹介されているところである。
道路はなお川沿いに続いているが、五馬村方面に行くには左側の山を越えていかねばならないので、途中でこの道路と別れて左側の山に登るつづら折りの急な坂道を登っていく。寒根かずらの生い茂った坂道を登りきると車が通れるくらいの道に出て、山の向こうに抜けるトンネルが口をあけている。荒削りのこのトンネルを抜け、山道を延々と歩いていくのだが、これがめったやたらと遠い。
この辺りはその昔は「土蜘蛛」と呼ばれる種族が住んでいたと言われるところで、大和国家が形成されるまでは独立した王国だったことが知られている。景行天皇や日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が熊襲征伐にやってきたというのはこのあたりではないだろうか。五馬(いつま)というのは、この地方の女王だったイツメ姫の名が訛ったものと伝えられている。
歴史はともかく、それらしい遺跡もなにもないので、ここを歩いて行く私には単なる山里に過ぎないが、実際、歩いても歩いても山また山の人家も疎らな僻地で、子供だった私にも、どうしてこんな山奥に人が住み着いたのか不思議に思えるほどの田舎だった。
途中、「鼠谷(ねずみだに)」という所を通って行くのだが、昔はここを通って行く旅人はよく狐に化かされたという。付近の百姓が、夕方、この辺りで狐に化かされて、風呂に入ったつもりで肥溜めに潰かってしまったという話を聞いたことがある。昔は天ぷらや油揚げなどを持っていると、よく狙われたらしい。
そんな所だから、私は長い間、「ネズミ谷」を「キツネ谷」と間違えて憶えていた。このあたりがちょうど天ケ瀬と出口の中間点にあたるので、私たちはこの鼠谷で休憩することが多かった。草むらに座っておにぎりを頬張りながら、言い伝えられているキツネに化かされた人の話を聞くのは楽しかった。
ある秋の日に出口で法事があって、子供の私が上ノ市の帆足家を代表して出席したことがあった。おじいちゃんがもう出口まで歩くのは難儀だということで子供の私が代わって行ったのだが、いざ法事の席に出てみると、さすが山奥の田舎のことで、お経が終わった後の宴席では子供の私にまで湯飲み茶碗にお酒がつがれて、私は仕方なく少し口をつけてみたりしたが、親戚のおじさんが外に呼び出してくれるまでは本当にどうしていいのか困ったことを覚えている。
行きは同じ森町の親戚だった深草のおじさんが一緒に行ってくれたからよかったが、帰りはおじさんがもう二、三日泊っていくので私が一人になるということで、出口の家に何人もいた下男の一人が天ヶ瀬まで四里の道を送ってくれることになった。
私はその人とは余り話したこともなかったので、出口の家を出てからしばらくは黙って歩いたが、そのお兄さんも恥ずかしいのか余り口をきかなかった。かなり歩いてから途中の草むらで大きな青大将を見掛けたのをきっかけに、やっと気持ちが打ち解けてきて、それからはよく話すようになったが、その人の家は天ヶ瀬近くの農家だそうで、私を天ヶ瀬まで送っていったあとは家に帰って二、三日休暇をとるとのことだった。
ずいぶん歩いて私たちは鼠谷に至り、ここで持ってきたおにぎりを食べた。私たちは時計も持っていなかったので時間を確かめることはできなかったが、朝一〇時ごろ出口の家を出たので、もうそろそろお昼に近いはずだった。私は下男が竹の皮で包んだお握りを取り出してくれたのを頬張りながら、ふと、なぜ私はこの人とこんな山の中を歩いているのだろうかと、妙な気持ちになった。考えてみれば、この男の人はもともと私の知らない人である。
私が知らないうちに出口の人たちが私を天ケ瀬まで送り届けるようこの男に申し付けたのだろうが、それはこの人にそう言われたから分かっただけで、考えてみれば私は出口の人たちに、この人について行きなさいとは言われていないのである。
さあ、気味がわるくなった。何しろここはキツネがよく人を騙すと伝えられるネズミ谷の真っただ中である。私は、この男の人がもしやキツネではないかと疑い始めていた。悟られないように彼の顔をそっと覗きみると、顔はいかついが何となくキツネに似ていないこともない。もしキツネだったら、さっきくれた握り飯だって馬の糞かもしれない。私は騙されていはしないかと、彼に悟られないようにそっと頬っべたをつねってみたりした。騙されているのなら、頬っぺたをつねれば目覚めるに違いないと考えたからである。
途中、天ケ瀬が近くなってから、その人の家が近くにあるというのでちょっと寄って休んでいったが、そこで私はその人のお母さんという人から、帰りの汽車の中で食べるようにと茹で栗をたくさん貰った。私はまだ彼らがキツネかも知れないという疑いを持っていたので、栗が汽車の中で石ころか何かに変わってしまうかも知れないと心配していた。
いよいよ天ケ瀬駅が間近になってきたところで、あれほど良く晴れていたのにもかかわらず、突然パラパラと雨が降り出した。見上げると、良く晴れた青空の中に、薄いねずみ色の雨雲が広がりつつあり、これが雨を降らせているらしい。日が照っているのに雨が降ることをよく「狐の嫁入り」というが、そんな天気の時はどこかで狐の結婚式が行われていると言われる。私はますますロマンチックな気持ちになってきた。きっとどこかの藪の中から狐どもが私たちのことをずっと見守っていたのかもしれない。
結局、彼がキツネかもしれないという考えは、天ケ瀬駅に到着するまで私の頭から離れなかった。彼はキップを買って私が汽車に乗って座席に座るまでホームに送ってきてくれた。汽車が動きだし、手を振る彼の姿が見えなくなってから、私は彼をずっとキツネではないかと疑っていたことを申し訳ないことをしたと思った。
新緑の萌える頃
童話祭が過ぎるころになると樹々は急に緑を増す。山々を照らす日差しも輝きを増して、上ノ市から見る真新しい森中学校の校舎が眩しく反射していた。森中学は上ノ市のすぐ近くにあって、戦前は青年学校と呼ばれていたところである。遠かった森小学校に比べれば、家からは目と鼻の先だったので、極端にいえば授業開始5分前のベルを聞いてから駆けつけても始業に間に合うくらいだった。
希望に燃えて入学した森中学には、同時に三人の若い先生が配属されてきた。その一人で私たちの担任になったのが社会科の安部昭六先生で、大分師範を出たばかりの精鋭だった。精鋭だけにともすれば情熱が走り過ぎて、ときどき生徒の頭を叩いたりすることがあったが、私はこの若々しくスマートな安部先生が大好きだった。一日、先生は家庭訪問でうちに来られたことがあったが、おばあちゃんとマル子おばちゃんは先生が来るというので、朝から煮物を作ったり、村口からアンパンを買ってきたりして準備していた。当時の田舎ではお金を出して買うアンバンは高級なお菓子だったから、うちでは先生が来るというので特別に奮発したものだった。
安部先生は、マル子おばちゃんから私が田舎にきたいきさつ、なぜ近くに両親がいないかなどについていろいろ聞いたらしく、帰り際に先生がアンパンを残していったのを機に、私が新聞紙にくるんだアンパンをもって先生を追いかけ、遠慮するのを無理に持ち帰るよう押しつけると、先生はとつぜん姿勢を正し、「それでは折角だから遠慮なくいただきます。帆足君! いいおじさん、おばさんをもって幸せだね、大事にするんだよ!」と言った。私は嬉しくなって「はい、そうします!」と軍隊調で答えた。
安部先生は何度も振り返りお辞儀をしながら、薄暗くなった道を平の下宿の方へ帰っていったが、私はその瞬間から安部先生が急に身近かに感じられるようになって、ただやたらと嬉しかった。私はクラスでもあまり出来のいい方ではなかったから、安部先生が勉強のことについてマル子おばちゃんやおばあちゃんにどんなことを話したか知る由もなかったが、どうせあまり感心するような話はなかったはずである。それでも私は、先生の家庭訪問というのは決して悪いものではないなア、と思った。
私が入学した頃は、上ノ市のいちばん外れの生田煉瓦屋と麻生の家から先はもう道路の両側はずっと田圃続きで、中学の校門前の坂が道路に出たところに、夜は無人になる土木事務所があるきりで、その先はまた、栄町まで人家がなく両側に田圃が続いていた。
森中学の校歌の一番は、
九重の山を巡りて
玖珠川の流れは遥か
緑濃き里に集いて
自由の真理の道
おお、われら ひたすらに
求めゆかなん
というなかなか高尚な歌詞で、ここからは玖珠川こそ見えなかったが、朝は校庭から九重連峰の青い山並みが見えたし、硫黄山の噴煙が白くたなびいているのが望見された。
自転車事故
今では交通量も多くなって道路もすっかり良くなったが、私か子供の頃の上ノ市橋の辺りは、夜になると人通りもなく、街灯もなかったので真っ暗になった。夏の夜、何かの用で橋をわたらなければならない時など、あの橋の欄干のすぐ向こうに黒々と繁っている森本の水車の森がざわざわと鳴って怖かった。騒然とした川音に混じって、どこか三味線淵の方からウォーンウォーンと腹の底に響くような食用蛙の鳴き声が聞こえてきて、もう幽霊が出ないのが不思議なくらいの恐ろしい雰囲気がいっぱいに立ち込めていた。
どこにも変わった人はいるもので、そんな雰囲気をわざわざ楽しむかのように、この橋の辺りで毎夜尺八を吹き鳴らす人がいた。誰が吹いているのか分からなかったが、人通りなど全くなかった真っ暗な橋の上から尺八の音が聞こえてくるというのは、何やら気味が悪いもので、吹いている本人はきっと京の五条大橋で弁慶がやってくるのを待っている牛若丸の気分だったかも知れないが、毎夜、鬼気迫る尺八の音を聞かされる私たちは堪らなかった。尺八の音の主を見た人は誰もいなかったが、私などが確かめに行ったらきっと橋の欄干の上に立って尺八を吹いている般若にでも出会ったかも知れない。そんな想像を逞しくしているとますます怖くなり、私はその尺八が聞こえてくると急いで布団をかぶって寝てしまった。
ある年の初夏、私はそれまでの自転車の三角乗りから正しい乗り方ができるようになったのが嬉しくて、後ろに隣りの昭ちゃんを自転車に乗せたまま誤ってこの橋の袂の岩盤が露出した小川に落ちたことがある。
その頃、やっと自転車に慣れてきていた私は、二人乗りで中学の方から坂を下ってきたのだが、スピードが上がるにつれてどうしたはずみかハンドルが効かなくなり、あれよあれよという間に、道路の端から勢いよく川に転落してしまった。物凄い衝撃で一瞬私は何か起こったのか分からなくなったが、気がついてみたら私は川底の水の少ない岩盤の上に立って、夢遊病者のように力なく道路に這い上がろうとしていたらしい。
昭ちゃんは、落ちた瞬間に私の背中で胸を強く打つただけで無事だったが、一瞬の出来事に驚いて泣きながら道路にはい上がっていた。私はハンドルの中心の出っ張りが顎にささっておびただしい血を出した。しびれた顎には、思わず当てた人差し指の先がすっぽり入るほどの裂傷ができており、たまたま近くで立ち話をしていてこの事放を目撃した近所のおばさんたちが駆け寄ってきて、私を抱きかかえるように道路に引き上げてくれた。自転車は昭ちゃんの家のものだったが、衝撃でペダルが折れており、私はすぐ高田医院に担ぎ込まれてアゴを幾針か縫ったが、あの高さから落ちて良く死ななかったものだと今でも思い出すとぞっとする事故であった。
その頃の私はエネルギーが有り余っていたらしく、よく人怪我をした。前歯を折ってしまったのもその頃である。
朝鮮戦争が始まって銅や鉄の価格が急騰し、そのころ町の屑屋も釘や銅線を高く買い漁っていたので、私たち子供も屑鉄を探しに機関庫付近をうろついた。鉄は一貫目が一一〇円、銅は四〇〇円にもなるというので、電話線の工事でもあろうものなら、作業員が高い所から落とす短い銅線の切れ端を私たちは血眼で拾った。鉄道は何と言っても鉄くずの宝庫だった。線路を留める犬釘やボルト、ナットなど、機関庫周辺の草むらや線路脇にはいろいろな鉄くずが落ちており、それらを拾って屑屋に売れば幾らか小遣いになるというので、列車や機関車に轢かれないように気をつけながら私たちはそうした戦前から放置されていた鉄くずを真剣に拾い歩いた。
機関庫周辺は沢山の線路が輻輳しており、私は元気が良かったから、線路から線路へ渡り歩くのが面倒くさく、線路を横切るときは一ペんに二本づつ線路を飛び越えてわたって行った。人に見つからないようにしながら、汽車が来ないうちに向こう側へわたってしまわなければならない。勢い良く線路を飛び越えていた私は、どういうわけか線路脇を走っている細い通信線に気づかず、一気に二本の線路を飛び越えるつもりが、足がその線に引っ掛かっていたため上半身だけが向こう側に激しく倒れてしまった。運悪く二本の線路のうち向こう側の線路がちょうど倒れた私の顔の所に当たって、一瞬のうちに私は前歯を全部折ってしまったのである。激しく顔を打った私が血まみれの姿でやっと起き上がったのを見て、一緒にいた子供たちは驚いてわっと逃げていってしまった。
私は家に帰ってから、かつてチエ子姉ちゃんがよく行っていた倉成の歯医者に行ってすぐ治療をしてもらったが、事故を振り返って考えているうちに、前歯を折ったくらいで良く助かったものだと考えるようになった。あの前歯を折った線路がもう少し上の前頭部にでも当たっていたら、とてもこんな程度のことでは済まなかった筈である。私を預かっている格好の叔父や叔母、祖父母にしても、そんな事故で私を死なせでもしたら、東京の父母に対して具合の悪いことになっていたに違いない。