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三人姉妹 第一幕          アントン・チェーホフ 

 

一九〇〇年に書かれた、一九〇一年モスクワ芸術座によって初演された「三人姉妹」では、同じ主題がいっそう暗いトーンで展開する。凡俗な地方都市に住む三人姉妹にとって、両親のいない家庭における唯一の男子であるアンドレイがやがて大学教授になり、そして自分たちが明るい少女時代をすごしたモスクワへ帰ることが、唯一の夢であり、生活の支えとなっている。

しかし、彼女たちのそうした幻想は現実の生活によってしだいに打ち砕かれてゆく。そのことは、第一幕でモスクワ行きの夢を語るオリガとイリーナの会話の合間に、舞台奥での将校たちの「ばかばかしい」という台詞や、笑い声がはさまれていることによって暗示されている。

アンドレイは浅薄な女と結婚して、イオーヌイチのように、クラブでの力-ドや酒だけが楽しみといった俗物になってしまう、労働にロマンチックな夢を託していた末娘のイリーナは、いざ実際に勤めにでて、毎日の散文的な仕事に追いまくられ、モスクワによって象徴されるばら色の夢がくだらぬものであったことを思い知るのである。

また、世間的な体面や秩序だけを気にして生きているような教師クルイギンにとって二女のマーシャは、人類の明るい未来を美しく語るヴェルシーニンとの恋に生命を燃やそうとするが、そのヴェルシーニンとて、しじゅう自殺未遂をしでかすヒステリーの妻を扱いかねている頼りない人間にすぎない。こうして、連隊が町を去って行き、三人姉妹のすべての夢と幻想はぶちこわされ、彼女たちはあらためて「地に足をつけて」生きてゆかねばならぬことを決心するのである。

三人姉妹 登場人物
アンドレイ(セルゲーエウィチ・ブローゾロフ)
ナターリヤ(イワーノヴナ) その婚約者、のちに妻。
オリガ  アンドレイの長女
マーシャ  アンドレイの次女 
イリーナ  アンドレイの三女
クルイギン(フョードル・イリーチ) 中学教師、マーシャの夫。
ヴェルシーニン(アレクサンドル・イグナーチェウィチ)陸軍中佐、砲兵中隊長。
トゥゼンバフ(二コライ・リヴォ-ウィチ)  男爵、陸軍中尉、
ソリョーヌイ(ワシーリイ・ワシーリエウィチ)  陸軍 二等大尉。
チェプトゥイキン(イワ冫・ロマーノウィチ)  軍医
フェドーチク(アレクセイ・ペトローウィチ)  陸軍少尉。
ローデ(ウラジーミル・カルロウィチ)  陸軍少尉。
フェラポント  県会の守衛、老人、
アンフィーサ  乳母。八十歳の老婆。
 
県庁所在地の都会が舞台

 

三人姉妹

第一幕

 ブローゾロフ家、円柱の並んだ客間。柱の奧に大きな広間が見える。正午。外は陽射しがあふれ、うきうきしている。広間で朝食の支度をしている。
女学校教師の紺の制服を着たオリガ、立ちどまったり歩いたりしながら、終始、生徒のノートを直している。マーシャ、黒いドレスで帽子を膝にのせて座り、本を読んでいる。白いドレスのイリーナ、考えこんだまま、たたずんでいる。

オリガ  お父さまが亡くなったのは、ちょうど一年前の、それもまさに今日よ。五月五日、あなたの名の日だったわ、イリーナ、とても寒くて、あの日は雪が降ってたわね。わたし、あの悲しみにとても堪えられないような気がしていたし、あなたも死んだみたいに気を失って寝ていたわ。でも、こうして一年たってしまうと、わたしたち、楽な気持で思いだせるのね。あなただって白いドレスなんか着て、顔が晴ればれしているわ。〔時計が十二時を打つ〕あの日もやはり時計が鳴ってたわ。〔間〕思いだすわ、お棺が運ばれて行く畤、軍楽隊が演奏していたし、墓地 では弔銃を射ったわね。お父さまは将軍だったし、旅団長をなさってたけれど、それにしては会葬者が少なかったじゃない。もっとも、あの日は雨だったから。ひどい雨と雪だったもの。
イリーナ なぜそんな思い出話をするの? 
 〔円柱の奥にある広間のテーブ儿のわきに、トゥゼンバフ、チェブトゥイキン、ソリョーヌイがあらわれる〕
オリガ  今日は暖かくて、窓をすっかり開け放しておいてもいいくらいなのに、白樺はまだ芽をふいていないわね。お父さまが旅団長になって、わたしたちを連れてモスクワを離れたのが、十一年前だったわ。わたし、よくおぼえているけど、五月のはじめ、ちょうどこの季節のモスクワは、もう一面の花ざかりで、暖かくて、何もかもが陽射しをいっぱいに受けているのよ。十一年たってしまったけれど、わたし、モスクワのことだったら、まるで昨日出てきたみたいに何でもおぼえているわ。ああ! 今朝、眼をさましてね、あふれる陽射しを見て、春を目のあたりに見たら、胸の中で喜びが沸きたって、故郷へ帰りたくてたまらなくなったわ!
チェブトゥイキン  そうはいかんよ!
トゥゼンバフ  ばかな話です、もちろん。
マーシャ  〔本を見ながら考えこみ、低く口笛を吹く〕
オリガ  口笛はやめて、マーシャ。よくそんなことができるわね! 〔間〕毎日学校で、そのあと晩まで家庭教師をするものだから、わたし、いつも頭痛がして、考え方までまるでもうすっかり年をとったみたいだわ。ほんとに、学校に勤めてからこの四年間に、力も若さも毎日少しずつ抜けてゆくのを感じるのよ、空想だけはどんどん育って、固まって行くけど……
イリーナ  モスクワへ行くのよ この家を売って、ここのすべてにけりをつけて、モスクワへ……
オリガ  そうね! 早くモスクワへね
 〔チェブトゥイキンとトゥゼンバフ、笑う〕
イリーナ  兄さんはきっと大学教授になるでしょうから、どうせここには住まないわ。ただ、気の毒に、マーシャだけ欠けてしまうけど。
オリガ  マーシャは毎年、夏いっぱいモスクワに来ることになるでしょ。
マーシャ  〔低く口笛を吹く〕
イリーナ  大丈夫、何もかもうまくいくわ。〔窓から外を眺めながら〕いいお天気ね、今日は あたし、どうして心がこんなに晴れやかなのか、わからないの! 今朝、今日があたしの名の日だってことを思いだしたら、急に嬉しくなって、まだママが生きてらした子供の頃を思いだしたわ。そして、そりゃすばらしいいろいろな考えに胸をはずませていたの、素敵な考えばかりだったわ!
オリガ  今日のあなたは全身晴れやかで、とびきり美人に見えるわ。マーシャもきれいね。アンドレイだってハンサムのはずなんだけど、ただ、ひどく太ってしまったわ、太るのは似合わないのに。わたしは老けこんで、めっきりやつれたわね、きっと学校で生徒に腹を立てるからよ。今日はお休みで、家にいられるから、頭痛もしないし、昨日より若返った気持がする。今二十八だけど、ただ……すべて神さまの御心で、ありがたいことだわ、でもわたし、結婚できて一日じゅう家に落ちついていられたら、その方がずっといいような気がするわね。〔間〕わたし、夫を愛すると思うわ。
トゥゼンバフ  〔ソリョーヌイに〕何て下らんことを言うんです、あなたの話をきくのはうんざりしましたよ。〔客間に入ってきながら〕申しあげるのを忘れましたが、今日われわれの新しい砲兵中隊長ヴェルシーニンが、ごあいさっに参るそうです。〔ピアノの前に坐る〕
オリガ  まあ、そうですの! 大歓迎ですわ。
イリーナ  年とった方?
トゥゼンバフ  いえ、別に。多く見ても、四十か、四十五ってとこでしょう。〔静かにピアノを弾く〕きっと、立派な人物なんでしょうよ。頭はわる
くない、これは確かです。ただ、よくしゃべりますけどね。
イリーナ  人をひきつける方?
トゥゼンバフ  ええ、まあまあね、ただ、奥さんと、お姑さんと、二人の娘がいるんです。おまけに再婚でしてね。よそのお宅を訪問すると、どこででも、奥さんと二人の娘がいることを話すんですよ ここでもきっと言いますから、奥さんはなんか半分精神異常のような人でしてね。若い娘さんみたいに長いお下げをして、大げさなことばかり言ったり、哲学をぶったりするし、ちょいちょい自殺をはかるんですよ。明らかに、ご主人への嫌がらせですがね。僕だったら、とっくにあんな女性から逃げだしてるでしょうけど、あの人はじっと我慢して、愚痴をこぼすだけなんです。
ソリョーヌイ  〔チェブトゥイキンと広間から客間へ入ってきながら〕片手だと僕は二十五キロ持ち上げるのがやっとだけど、両手なら八十キロから百キロだって大丈夫です。だから僕は、二人がかりの力は一人の倍じゃなくて、三倍か、それ以上にさえなるという結論をだしたんです。
チェブトゥイキン  〔歩きながら新聞を読む〕抜け毛には……半壜のアルコールにナフタリンバクラムを……溶かして、毎日用いる……〔メモをとる〕メモしておこう! 〔ソりョーヌイに〕だからさ、さっきも言ったように、壜にコルクの栓をして、それにガラス管を通すんだ……そこらにあるごく普通の明礬(みようばん)を一つまみとって……
イリーナ  イワン・ロマーヌイチ、ねえ、イワン・ロマーヌイチ!
チェブトゥイキン  なんです。可愛いお嬢さん?
イリーナ  教えていただきたいの、どうしてあたし今日こんなに幸せな気持なのかしら? まるで帆をいっぱいに張って、上を見ると広い青空を、真っ白い大きな鳥が飛んでいるみたいだわ、どうしてかしら? なぜ?
チェブトゥイキン 〔彼女の両手に接吻しながら、やさしく〕わたしの白鳥さん……
イリーナ  今朝眼をさまして、起きて顔を洗ったら、ふいに、あたしにはこの世のあらゆることがはっきりしているんだ、どう生きてゆかなければならないか、あたしにはわかっているんだ、という気がするようになったんです。イワン・ロマーヌイチ、あたし何でも知ってるんですから。人間は労働しなければいけないんだわ。たとえどんな人だろうと、額に汗して働かなければ。そこにこそ、人生の意義と目的や、人間の幸福と喜びがあるんですもの。夜が明けるか明けないうちに起きだして、道路の石を砕いている労働者とか、羊飼いとか、子供たちを教える先生とか、鉄道の機閧士なんかになれたら、どんなに素敵かしら……そう、昼の十二時に起きて、それからベッドの中でコーヒーを飲んで、そのあと二時間がかりで身支度をするような若い女でいるくらいなら……ああ、獸だわ、そんなの! そんな女でいるくらいなら、別に人間でなくたって、働くことさえできるなら、いっそ牛かただの馬にでもなる方がましですものね。暑い陽気の時にとても水が飲みたくなることがあるでしょう、あれと同じように、あたし、働きたくなったんです。だから、もしこれからあたしが早起きや仕事をしないよう だったら、絶交してくださいね、イワン・ロマースイチ。
チェブトゥイキン  〔やさしく〕しますとも、絶交しますよ……
オリガ  父はわたしたちを七時に起きるようにしつけましたの。今でもイリーナは七時に眼をさますんですけど、少なくとも九時までは床の中で何か考えていますわ。その顔ときたら真剣そのもの! 〔笑う〕
イリーナ  姉さんはあたしを子供扱いするのに慣れてしまったから、あたしが真剣な顔をすると変なのね。あたしは二十歳なのよ!
トゥゼンバフ  労働への切ないあこがれ、ああ、僕にはその気持、実によくわかるな………僕は生まれてこのかた、一度も働いたことがないんです。なにしろあの寒い、怠け者の都ペテルブルグで、ついぞ労働もなんの気苦労も知らぬ家庭に生まれたんですからね。今でもおぼえていますが、幼年学校から家へ帰ると、召使が長靴をぬがせてくれたもんです。そんな時に僕が勝手なわがままをしても、母は尊敬するような眼で僕を見ているだけで、ほかの人たちが違う眼で見ると、おどろいていましたものね。僕は過保護で仕事をさせられなかったんですよ。ただ、保護しきれたかどうか、そいつは怪しいもんですけど! 今や時は訪れて、われわれみんなの頭上に巨大な力が迫っているし、荒々しいはげしい嵐が訪れそうな雲行きです。嵐はぐんぐんすすんで、もう間近に迫っているし、もうじきわたしたちの社会から怠惰や、無関心や、労働に対する偏見や、腐りきった倦怠を吹きとばしてくれるでしょう。僕もこれから働きますし、あと二十五年か三十年もすれば、もうどの人間も働くようになるでしょうよ。どの人間もね!
チェブトゥイキン  わたしは働かないね。
トゥゼンバフ  あなたは員数外ですよ。
ソリョーヌイ  あと二十五年のちには、君はもうこの世にいないよ、ありがたいことにね。あと二、三年もすりゃ、君は脳卒中でぽっくり行くか、でなけりや僕がかっとなって君の額に弾をぶちこむかしてるさ、ええ、君。〔ポケットから香水瓶をとりだして、自分の胸や腕にかける〕
チェブトゥイキン  〔笑う〕しかし、ほんとにわたしはついぞ何一つしてこなかったな。大学を出たきり、まるきり何もせずじまいで、一冊の本さえ読み通したこともないし、読むのはもっぱら新聞ばかり……〔ポケットから別の新聞をとりだす〕ほら……早い話、ドブロリューボフという人がいたことは新聞で知っていても、その男が何を書いたかは知らないんだから……そんな男、だれが知るもんですか……〔階下から床を叩く音がきこえる〕おや……下でわたしを呼んでる、だれか、わたしのところへ来たんですよ。すぐに戻ります……ちっと失礼……〔顎ひげをしごきながら、急いで退場〕
イリーナ  あの人、何か考えだしたのよ。
トゥゼンバフ  そうですね。得意そうな顔で出て行ったから、たぶん、今すぐあなたにプレゼントを持ってくるんでしょうよ。
イリーナ  厭ね、そんなの!
オリガ  そう、かなわないわ。いつも、ばかなことばかりなさるから。
マーシャ  入江のほとりに立つ緑の樫の木、金の鎖、その樫の木にかかり……〔立ち上がり、小声で口ずさむ〕
オリガ  今日は浮かない顔をしてるわね、マーシャ。
マーシャ  あら、どこへ!
オリガ  家よ。
イリーナ  変なの……
トゥゼンバフ  名の日のお祝いから逃げだすなんて!
マーシャ  どうせいいのよ……晩に来るわ。さよなら、可愛い子ちゃん……〔イリーナに接吻する〕もう一度、健康と幸せを祈るわ。以前、お父さまが生きてらした頃は、名の日の祝いにはいつも三十人から四十人くらい将校さんがいらしたものだけど、今日はせいぜい一人半てとこで、砂漢みたいにひっそりしてるわね……じゃ、帰るわ……今日はあたし、メランコリズムで、浮かないの。だから、あたしの言うことなんか、まともにきいちゃだめよ。〔泣き笑いしながら〕あとで話しましょうね。ひとまずさよなら、どこかへ行ってくるわ。
イリーナ  〔不満そうに〕まあ、姉さんたら……
オリガ  〔涙をうかべて〕わかるわ、マーシャ、あなたの気持。
ソリョーヌイ  男が哲学すると、詭弁哲学かただの詭弁になるけれど、女が一人あるいは二人で哲学するとなると。これはもう、あたし指を引っ張って、ということですからな。
マーシャ  何をおっしゃりたいの、ひどく厭な方ね?
ソリョーヌイ  いや、別に。あっという間もなく、熊は彼に襲いかかって、〔間〕
マーシャ  〔腹立たしげに、オリガに〕泣かないでよ!
   〔アンフィーサと、パイを持ったフェラポント登場〕
アンフィーサ  こっちですよ、あんた。お入りよ、あんたの靴はきれいだから、〔イリーナに〕県会のプロトポポフさまからでございますよ、ミハイル・イワーヌイチさまからで……お祝いのピローグです。
イリーナ  ありがと。お礼を申しあげておいて。〔パイを受けとる〕
フェラポント  何でごぜえます?
イリーナ  〔声を高めて〕お礼を申しあげておいて!
オリガ  ばあや。おじさんにピローグでもあげてちょうだい。フェラポント、あちらへ行って、ピローグをいただくといいわ、
フェラポント  何でごぜえます?
アンフィーサ  さ、行きましょう、フェラポント・スビリドーヌイチ。行きましょう……〔フェラポントと退場〕
マーシャ  ミハイル・ポターブイチだか、イワーヌイチだか知らないけど、あたし、あのプロトポポフって人、嫌いだな。あんな人、よぶことないわよ。
イリーナ  よんでないわ。
マーシャ  それならいいけど
 〔チェブトゥイキン登場。そのあとに銀のサモワールを捧げた兵卒つづく。おどろきと不満のどよめき〕
オリガ  〔両手で顏をおおう〕サモワールだなんて! ひどいわ! 〔広間のテーブルの方に引っ込む〕
イリーナ  イワン・ロマーヌイチ、これなんの真似ですの?
トゥゼンバフ  〔笑う〕僕の言った通りでしょ。
マーシャ  イワン・ロマーヌイチ、あなたってまったく恥を知らない方ね!
チェブトゥイキン  わたしの大事な可愛いお嬢さん方、わたしにはあなた方しかいないんです。あなた方はわたしにとって、この世にあるかぎりのいちばん大切な存在なんですよ。わたしはもうじき六十になる。わたしは老人だ、一人ぼっちの、何の取柄もない老人です……あなた方に対するこの愛情以外に、わたしには何一ついいところなんぞありゃしないし、もしあなた方がいなかったら、わたしなんか、もうとうの昔にこの世に生きちゃいなかったでしょう……〔イリーナに〕可愛い嬢や、わたしはあなたが生まれた時から知っているし……この手で抱っこもしてきた……わたしは亡くなられたお母さんが好きだったんですよ……
イリーナ  でも、なぜこんな高いプレゼントを!
チェブトゥイキン  〔涙声で、腹立たしげに〕高いプレゼントですって……まったく、わかっちゃいないんだから! 〔従卒に〕このサモワールを向うへ運んどけ……〔口真似をする〕こんな高いプレゼントを、だなんて……〔従卒、サモワールを広間に運ぶ〕
アンフィーサ  〔客間を通り抜けながら〕お嬢さま方、見たことのない大佐がお見えですよ! もう外套をぬいで、こちらへいらっしゃいますよ。アリーヌシカ、愛想よく、丁寧にするんですよ……〔退場しながら〕それに、もうお昼の時間なのに……まったく……
トゥゼンバフ  ヴェルシーニンですよ、きっと。
  〔ヴェルシーニン登場〕
トゥゼンバフ   ヴェシーニン中佐です!
ヴェルシーニン  お目にかかれて光栄です。ヴェルシーニンです。やっとお宅に伺えて、本当に心から嬉しく思ってます。すっかり大人になられて! いや、まったく!
イリーナ  どうぞお掛けください。ようこそいらっしゃいました。
ヴェルシーニン  〔快活に〕嬉しいな、実に嬉しい! それにしても、あなた方はたしかご姉妹三人だったでしょう。よくおぼえてますが、お嬢さん三人でしたね。お顔はおぼえていませんけど、お父上のブローゾロフ大佐に小さなお嬢ちゃんが三人いらしたことはよくおぼえていますし、この目で見てもいますからね、時のたつのは早いものですな。いや、まったく、時のたつのは早いものだ。
トゥゼンバフ  アレクサンドル・イグナーチェウィチはモスクワからいらしたんです。
イリーナ  モスクワから? モスクワからですの?
ヴェルシーニン  ええ、そうです。亡くなられたお父上があそこで砲兵隊長をしておられた頃、わたしも同じ旅団の将校でした。〔マーシャに〕あなたのお顏は、いくらかおぼえているような気がしますよ。
マーシャ  でも、あたしの方は全然!
イリーナ  オーリヤ! オーリャ!  〔広間に声をかける〕オーリヤ、いらっしゃいよ!
〔オリガ、広間から客間にはいる〕
イリーナ  今伺ったら、ヴェルシーニン中佐はモスクワからですって。
ヴェルシーニン  すると、あなたがいちばん上のオリガ・セルゲーエヴナですか……で、あなたがマリヤさんで……こちらがいちばん下のイリーナさんですね……
オリガ  モスクワからですって? 
ヴェルシーニン  ええ。モスクワで学んで、モスクワで軍務について、永いことあそこで勤務した末に、やっと当地の砲兵中隊を受け持つことになったので、ごらんのように移って参りました。実のところあなた方をおぼえているわけではなくて、あなた方が三人姉妹だったってことしか記憶にないんです、お父上のことは記憶にそっくり残っていますから、こうして眼をつぶると、今も生きてらっしゃるように眼にうかびますがね。モスクワのお宅へはよくお邪魔したものですよ……
オリガ  わたし、みなさんをおぼえているような気がしてましたのに、急に……
ヴェルシーニン  名前はアレクサンドル・イグナーチェウィチです……
イリーナ  アレクサンドル・イグナーチェウィチ、モスクワからお見えになるなんて……ほんとに思いがけませんでしたわ!
オリガ  わたしたち、あちらへ移りますの。
イリーナ  秋までにはもう向うに行ってると思いますわ、故郷の町ですわ、あたしたち、あちらで生まれたんです……スターラヤ・バスマンナヤ通りですわ……〔二人とも喜びに笑う〕
マーシャ  思いがけなく同郷の方にお目にかかれましたわ。〔いきいきと〕今思いだしましたわ! ほら、オーリャ、うちでよく言ってたじゃないの、「恋する少佐」って。あなたはあの頃中尉で、だれかに恋をしてらしたから、みんながなぜか少佐といってあなたをからかってましたわ……
ヴェルシーニン  〔笑う〕そう、そう……恋する少佐、そうでしたね……
マーシャ  あの頃は口ひげだけでしたわ……まあ、すっかりお老けになって! 〔涙声で〕すりかりお老けになったわ!
ヴェルシーニン  そう、恋する少佐なんて呼ばれていた頃は、まだ若かったし、恋をしてましたからね。今は違います。
オリガ  でも、白髪だってまだ一本もないじゃありませんか。少しお老けにはなりましたけど、まだお年じゃありませんわ、
ヴェルシーニン  しかし、もう数えで四十三ですからね。モスクワを離れてだいぶになられますか?
イリーナ  十一年です。どうしたの、マーシャ、泣いたりして、おかしな
………〔涙声で〕あたしまで泣きたくなるわ……
マーシャ  何でもないの。あなたは何通りに住んでらっしゃいましたの?
ヴェルシーニン  スターラヤ・パスマンナヤ通りです。
オリガ  わたしたちもそうでしたわ……
ヴェルシーニン  一時ドイツ通りに暮らしたこともあります。ドイツ通りからクラースナヤ兵営にかよったものです。その途中に険気な橋があって、橋の下で水がざわめいてましてね。孤独な人間はうら悲しくなるんですよ、〔間〕そこへゆくと、ここのは実に広大な、水量豊かな河ですね! すばら
い河だ!
オリガ  ええ、ただ寒いんですのよ。ここは寒いし、蚊が多くて……
ヴェルシーニン  何をおっしゃるんです! ここは実に健康で快適な、スラヴ的な気候じゃありませんか森はあるし、河はあるし……それに、ここにも白樺がありますね。可愛い、つつましい白樺が。わたしは木の中で白樺がいちばん好きなんです。ここで暮らすのは素敵ですよ。ただ、おかしなことに、鉄道の駅が二十五キロも離れているんですね……おまけにだれ一人、どうしてそんなことになったか、わけを知らないんですから。
ソリョーヌイ  どうしてそうなのか、僕は知ってますよ。〔一同、彼を見る〕それはですね、もし駅が近かったら、遠くないはずだし、もし遠けりゃ、つまり近くないからです。
〔気まずい沈黙〕
トゥゼンバフ  あなた剽軽者ですね、ワシーリィ・ワシーリチ。
オリガ  わたしも今になってあなたを思いだしましたわ。おぼえています。
ヴェルシーニン  わたしはお母さまを存じあげていましたよ。
チェブトゥイキン  おきれいな人でしたな、天国に安らわせたまえ。
イリーナ  ママのお墓はモスクワですの。
オリガ  ノヴォ・ジェーヴィチイに……
マーシャ  まあ、いやだわ。あたし、お母さまの顔をもう忘れかけているわ。あたしたちのことも、こんなふうにおぼえていてくれないんでしょうね。忘れられるんだわ。
ヴェルシーニン  ええ。忘れられますよ。それがわれわれの運命なんです、仕方がありませんよ。今われわれにとって、まじめな、意義深い、とても重要なものに思われることも、やがて時がくれば、忘れられてしまうか、とるに足らぬものに思われるでしょう。〔間〕それにしてもおもしろいのは、いったい将来何が高尚で重要なもと思われるか、今のわれわれには全然わからないってことですね。コペルニクスや、あるいは、まあ、コロンブスの発見にしても、はたして当初は不必要な滑稽なものに思われなかったでしょうか、逆にまた、なにか変り者の書いた下らぬたわごとが、真理と思われたりしたんじゃないでしょうか? だから、われわれがこうして妥協している現在の生活だって、時がたつにつれて、奇妙で、不便で、愚かしくて、あまり清潔でないものに、いや、ことによると、罪深いものにさえ思われるようになるでしょうよ……
トゥゼンバフ  それはわかりませんよ、ひょっとしたら、われわれの生活を高尚なものと呼んで、敬意をもって思いだすようになるかもしれませんしね、現在は拷問も死刑もありませんし、侵略もないけれど、同時に一方ではどれほど多くの悩みがあることか!
ソリョーヌイ  〔甲高い声で〕ちっ、ちっ、ちっ……男爵は哲学するのが飯より好きだからね。
トゥゼンバフ  ワシーリイ・ワシーリチ、僕にかまわないでくれませんか……〔別の席に移る〕厭になるな、まったく。
ソリョーヌイ  〔甲高い声で〕ちっ、ちっ、ちっ……
トゥゼンバフ  〔ヴェルシーニンに〕現在見うけられる悩みは……まあ、悩みの種は尽きませんけれど! それなりにやはり、社会が到達した一定程度の精神的高揚を物語っているわけですからね……
ヴェルシーニン  そう、それはもちろんです。
チェブトゥイキン  君は今しがた、われわれの生活をいずれは高尚なものと呼んでくれるだろうと言われたけどね。男爵。しかし、人間は相変わらず低いよ……〔立ち上がる〕見てごらん、このわたしはこんなに低いから。わたしの生活が高尚な、納得のいくものだなんて、気休めにそんなことを言う必要があるまでの話だよ。
  〔舞台裏でバイオリンを弾く音〕
マーシャ  あれ、兄のアンドレイが弾いているんです。
イリーナ  兄は学者なんです。きっと、やがて大学教授になりますわ、パパは軍人でしたけれど、息子は学者の道を選んだんです。
マーシャ  お父さまの希望で。
オリガ  あたしたち、今日、弟をからかってやりましたの。どうやら、ちょっと恋をしているらしいんです。
イリーナ  この町のさるお嬢さんに。その方、今日うちに見えますわ、きっと。
マーシャ  ああ、あの人の服装ったらね! かっこわるいとか、流行遅れとかいうんじゃなくて、ただもう気の毒だわ! なんだか、俗っぽい房飾りのついた、おかしな、派手な黄色のスカートに、真っ赤なジャケットなんて。それにあの頬っぺたときたら、まるでごしごし洗ったみたい! アンドレイが恋してるもんですか、あたしには考えられないわ、兄さんにだってやはり趣昧ってものがあるもの。ただなんとなく、あたしたちをからかって、ふざけているだけよ。あたし昨日きいたんだけど、彼女ここの県会議長のプロトポポフと結婚するそうよ。結構なことだわ……〔横の戸口に〕アンドレイ、いらっしゃいよ! 兄さん、ちょっと!
  〔アンドレイ登場〕
オリガ  弟のアンドレイ・セルゲーイチです。
ヴェルシーニン  ヴェルシーニンです。
アンドレイ  プローゾロフです。〔汗をかいた顏を拭う〕こちらへは砲兵隊長で?
オリガ  ねえ、きいて、アレクサンドル・イグナーチイチはモスクワから
すって。
アンドレイ  そうですか? いや、それはおめでとうございます、これから姉や妹たちがあなたを放っとかないでしょうよ。
ヴェルシーニン  わたしはもう、みなさんをうんざりさせてしまったようですよ。
イリーナ  ね、ごらんになって。今日アンドレイが肖像画用のこんな素敵な額縁をプレゼントしてくれましたの
ヴェルシーニン  〔額縁を眺めながら、何と言ってよいかわからずに〕ええ……たしかに……
イリーナ  それに、ほら、ピアノの上の額縁、あれも兄の作品ですの。
  〔片手をふって、行こうとする〕
オリガ  弟はわが家の学者でもあれば、バイオリンも弾きますし、いろいろ細工物もしますし、一口に言って、何でもござれの名人ですわ。アンドレイ、行っちゃだめ! いつも逃げだすのが、弟の癖なんです。こっちへいらっしゃいよ!
〔マーシャとイリーナ、彼の両手をとって、笑いながら引きもどす〕
マーシャ  さ、いらっしゃいよ!
アンドレイ  放っといてくれよ、ねえ。
マーシャ  おかしな人! アレクサンドル・イグナーチェウィチは、その昔、恋する少佐なんて呼ばれたって、少しも怒ったりなさらなかったわよ。
ヴェルシーニン  ええ、全然!
マーシャ  あたし、兄さんに、恋するバイオリニストつて渾名をつけたいわ!
イリーナ  でなければ、恋する教授!
オリガ  この人、恋をしています! アンドリューシャは恋をしてます!
イリーナ  〔拍手しながら〕ブラーヴォ、ブラーヴォ! アンコール! アンドリューシャは恋をしています!
チェブトゥイキン  〔背後からアンドレイに近づき、両手で腰をつかむ〕生命短し、恋せよ乙女、だよ! 〔哄笑。彼はいつも新聞を手にしている〕
アンドレイ  もうたくさんですよ、いいかげんにしてください……〔顔を拭う〕ゆうべ徹夜しちまったもんで、今日は、言うなれば、いささかご機嫌斜めなんです。四時まで本を読んでいて、それから床に入ったんですけど、どうにもなりませんでした。あれやこれや考えているうちに、夜明けが早いので、陽射しがどんどん寝室に入りこんできましてね。ひと夏ここにいる間に、英語の本を一冊訳そうと思っているもんですから。
ヴェルシーニン  英語をお読みになるんですか?
アンドレイ  ええ。亡くなった父が教育でしごいたんです、こんなことを言うのは滑稽だし、ばかげているんですけど、やはり白状しますと、父の死後、僕は太りはじめて、ついに一年間でこんなに太っちまいましたよ、まるで身体がしごきから解放されたみたいに、父のおかげで、僕も、姉や妹たちも、フランス語と、ドイツ語と、英語を知ってますし、イリーナなんかその上イタリア語まで知ってるんですよ。でも、そりゃ苦労しましたけどね!
マーシャ  この町で三カ国語を知ってるなんて、無用の贅沢ですわ。贅沢でさえなくて、指が六本あるみたいな、なんか不必要なおまけですわ。あたしたち、余計なことをたくさん知りすぎてるんです。
ヴェルシーニン  こいつはどうも! 〔笑う〕余計なことをたくさん知りすぎている、なんて! 教養のある聡明な人間を必要としないような、そんなわびしい憂鬱な町なんか、どこにもありませんし、あるはずがないように思いますがね。まあ、かりに、この町の、もちろん遅れた粗野な、十万の人口の中に、あなた方のような人がたった三人しかいないとしますね。当然のことながら、あなた方は周囲の無知蒙昧な大衆に勝てるはずはない。人生の流れとともに、あなた方は少しずつ譲歩して、十万の群衆の中にまぎれこまざるを得ないだろうし、あなた方の声も生活にかき消されてしまうでしょう。だけど、それでもやはり、あなた方はすっかり消えてしまうわけじゃなく、影響を与えずにはいないはずです。あなた方のあとに、あなた方のような人が、あるいは六人、さらに十二人と、そんな具合にどんどん現われつづけて、やがてついにあなた方のような人たちが大多数になるんですよ。二百年後、三百年後の、この地上の生活は、想像もつかぬくらいすばらしい、驚嘆すべきものになるでしょうよ。人間に必要なのはまさにそういう生活なんです。かりに今のところそんな生活がないにしても、人間はそれを予感し、待望し、夢みて、それにそなえなければいけませんし、そのためには、お祖父さんやお父さんが見たり知ったりしていたことより、ずっと多くのものを見たり知ったりしなければいけないんです。〔笑う〕それなのにあなたは、余計なことをたくさん知りすぎているなんて、こぼしておられるんだから。
マーシャ 〔帽子をぬぐ〕あたし、ここでお昼をいただくことにするわ。
イリーナ 〔溜息をついて〕ほんとに、こういうお話はちゃんとメモしておくべきだわ……
  〔アンドレイはいない。いつのまにか退場したのである〕
トゥゼンバフ  永い年月ののちには、この地上の生活はすばらしい、驚嘆すべきものになるだろうと、おっしゃるんですね。その通りです。しかし、その生活にたとえ遠くからでも現在参加するためには、準備していなければならないんです、働かなければ……
ヴェルシーニン  〔立ち上がる〕そうですね、それにしてもお宅は花がたくさんありますね! 〔見まわしながら〕それに素敵なお住居だ! 羨ましいかぎりです! わたしなんぞ、これまでの一生、椅子を二つと、ソファ一つ、それにいつも燻ってばかりいるストーブをかついで、官舎から官舎へ転々としてきたものですよ。わたしの生活に欠けていたのは、まさにこういう美しい花です……〔手を揉みしだく〕ああ! しかし、どうもなりませんな!
トゥゼンバフ  そう、慟かなければいけないんです。あなた方はきっと、ドイツ人のくせに感傷的になって、とお思いでしょうね。しかし、正直言って僕はロシア人ですし、ドイツ語なんてしゃべることもできないんですよ。
父はロシア正教ですし……〔間〕
ヴェルシーニン  〔舞台を歩きまわる〕わたしはよくこう思うんです。もし人生を最初から、それも自覚してやり直せたら、どうだろうって? これまですごしてきた人生が、言うなれば、下書きで、もう一つの人生が清書だとしたら! そうだとしたら、われわれだれしも、何よりもまず自分自身をくり返さぬように努めるだろうと、思いますね。少なくとも、自分のために別の生活環境を作りだすでしょうし、花や光のあふれるこういう住居をととのえることでしょう……わたしには妻と、二人の娘があって、しかも妻は病弱な女である上にいろいろと面倒なことがあるもんですから、もし人生を最初からやり直せるとしたら、わたしは結婚なぞしないでしょうね……そう、しませんとも!
  〔クルイギン、燕尾服で正装して登場〕
クルイギン 〔イリーナに歩みよる〕可愛い妹、君の天使の祝日をお祝いするとともに、心から君に健康と、君くらいの年頃の娘さんに望み得るすべてを祈ります。それから、お祝いにこの本をプレゼントします。〔本を渡す〕うちの中学の五十年史で、わたしが書いたんだよ。つまらない本だし、暇つぶしに書いたものだけれど、とにかく読んでみておくれ。ようこそ、みなさん! 〔ヴェルシーニンに〕クルイギンです、ここの中学校の教師をしております。七等官です。〔イリーナに〕この本には、この五十年間にうちの学校を卒業した者の名前が全部出ているんだよ。Feci(フエキ) quod(クオド) potui(ポトウイ) faciant(フアキアント) meliora(メリオラ) potentes(ポランテス) つまり、わたしのできることはしつくしたから、力のある人がもっと立派に仕上げをしてくれればいい、というわけだ。〔マーシャに接吻する〕
イリーナ  でも、復活祭の時に、もうこういう本をくださったわ。
クルイギン  〔笑う〕そんなはずはないよ! だとしたら返しとくれ、でなけりゃ、こちらの大佐にさしあげる方がいい。どうぞ受けとってください、大佐。そのうち、退屈しのぎにお読みになることもあるでしょう。
ヴェルシーニン  これは恐縮です。〔帰り支度をしかける〕お近づきになれて、この上なく嬉しく思います……
オリガ  お帰りですの? あら、いけませんわ!
イリーナ  お昼をごいっしょになさってください。どうぞ。
オリガ  お願いですわ!
ヴェルシーニン  〔おじぎする〕どうやら、名の日に来合わせてしまったようで。失礼しました、存じませんもので、お祝いも申しあげずに……〔オリガと広間に去る〕
クルイギン  今日は日曜ですよ、みなさん。安息日です。各人それぞれの年齢と身分に応じて、大いに休息し、楽しもうじゃありませんか。絨毯は夏のうちは片づけて、冬までしまっておかないといけないよ……防虫剤かナフタリンをつけて……古代ローマ人が健康だったのは、働くすべを知り、かつ休息するすべも心得ていたからです。彼らは、mens sana in corpore sano、つまり健全な精神は健全な肉体に宿る、だったんですよ。彼らの生活は一定の形式にのっとって流れていましたからね。うちの校長の口癖ですが、あらゆる生活において大切なのは、その形である、ですよ……おのれの形を失うものは、終わりです。われわれの日常生活でも、まったく同じことですよ。〔マーシャの腰に手をまわし、笑いながら〕マーシャはわたしを愛してくれます。家内はわたしを愛しているんですよ。窓のカーテンも絨毯といっしょに向うへしまうといいね……今日はわたしは朗らかで、ご機嫌なんです。マーシャ、今日は四時に校長先生のお宅に何うよ。教員と家族たちのピクニックがあるからね。
マーシャ  行かないわ、あたし。
クルイギン  〔落胆して〕マ-シャ、どうして?
マーシャ  その話はあとにしましょう……〔腹立たしげに〕いいわ、行きます。ただ、離れててよ、おねがい……〔離れる〕
クルイギン  そのあと、晩は校長先生のお宅ですごすんだよ。病気のお身体だというのに、あの方は何よりもまずつきあいを大事になさろうと努めておられるんだから。実にすぐれた明るいお人柄だね。すばらしい人だ。昨日も会議のあとでわたしに「疲れたよ、フョド儿・イリーチ! 疲れた」とおっしゃるんだ。〔柱時計と、それから自分の時計を見る〕ここの時計は七分すすんでるな。そう、疲れたよ、とおっしゃってね!
  〔舞台裏でバイオリンを弾く音〕
オリガ  みなさん、どうぞこちらへ。お食事にしましょう! ピローグですわ!
クルイギン  ああ、可愛いオリガ! わたしは昨日は朝から夜の十一時まで働きづめだったんで、疲れてしまった。けれど、今日はとても幸せな気持ですよ。〔広間の食卓に向かう〕ねえ、オリガ……
チェブトゥイキン  〔新聞をポヶットにしまい、顎ひげをとかす〕ピローグだって? そいつは結構ですな!
マーシャ  〔チェブトゥイキンに、きびしく〕ただ、注意なさってね。今日は何も飲まないようになさるのよ。いいこと? 飲むと身体に毒ですもの。
チェブトゥイキン  ええ! もうなおりましたよ。アル中がなおって、もう二年になるんですからね。〔苛立たしげに〕えい、まったく、それにどうせ同じことじゃありませんか!
マーシャ  とにかくお飲みになっちゃだめ。そんな真似、なさらないでね。〔腹立たしげに、しかし夫にきこえぬように〕いやんなっちゃうな、また校長さんのところで一晩中くさくさしてるなんて!
トゥゼンバフ  僕があなただったら、行きませんね……しごく簡単ですよ。
チェブトウイキン  行くのはおやめよ、ね。
マーシャ  おやめよなんて言ったって……こんな生活、呪わしてく、堪えられないわ……〔広間に行く〕
チェブトゥイキン  〔彼女の方に行く〕これこれ!
ソリョーヌイ  〔広間に行きながら〕ちっ、ちっ、ちつ……
トゥゼンバフ  いいかげんになさいよ、ワシーリイ・ワシーリチ。もうたくさんです!
ソリョーヌイ  ちっ、ちっ、ちっ……
クルイギン  〔快活に〕あなたのご健康を祈って、大佐! わたしは教員で、この家では内輪の人間です。マーシャの夫でして……家内は気立てのいい女でしてね、とても気持がやさしくて……
ヴェルシーニン  わたしはそっちの濃い色のウォトカをやりましょう……〔飲む〕あなたのご健康を! 〔オリガに〕お宅は実に楽しいですね!
  〔客間。イリーナとトゥゼンバフだけになる〕
イリーナ マーシャは今日、機嫌がわるいんです。姉さんが十八で結婚した頃は、あのご主人がいちばん賢い人間に思えていたのね。でも今は違うんです。あの人、気立てはいちばんいいけれど、いちばん賢いってわけじゃないから。
オリガ  〔じれったそうに〕アンドレ、いらいしゃいよ、いいかげんにして!
アンドレイ  〔舞台奥で〕今行くよ。〔登場してテーブルに向かう〕
トゥゼンバフ  今、何を考えてらっしゃる?
イリーナ  別に。あたし、あのソリョーヌイって人、嫌いですわ、こわくって、ばかなことばかり言うんですもの……
トゥゼンバフ  変わってるんですよ、あの男。僕は彼が気の毒でもあるし、腹も立つけれど、むしろ気の毒ですね。内気なんだと思いますよ……僕と二人だけの時には、とても頭がきれて愛想のいいこともあるんですが、人なかにでるとがさつな人間になって、喧嘩っ早くなるんでね。行かないでください、さしあたり、みんなに食卓を囲んでいてもらいましょうよ。もう少しあなたのそばにいさせてください。今、何を考えてらっしゃるんです? 〔間〕あなたは二十歳、僕もまだ三十前。僕たちにこの先どれくらいの歳月が残されているんでしょうね、あなたへの愛に充ちた、長くはてしない毎日の連続が……
イリーナ  ニコライ・リヴォーウィチ、愛の話などなさらないで。
トゥゼンバフ  〔耳をかさずに〕僕は、生活らしい生活と、たたかいと、勤労とを、熱烈に渇望しているんです。その渇望が心の中であなたへの愛情と一つに融け合ったところへ持ってきて、まるでことさらそうしたかのように、あなたがお美しいものですから、僕には人生が実に美しいものに思われるんですよ! 今、何を考えてらっしゃるんです?
イリーナ  人生は美しいと、おっしゃるんですのね。そう、でももしそんなふうに見えるだけだとしたら? あたしたち三人姉妹には、まだ人生が美しかったことなんかありませんもの、人生は雑草みたいに、あたしたちの邪魔をしてきましたわ……あたし、涙を流したりして。そんな必要ないのに……〔急いで顔を拭い、ほほえむ〕働かなければね。働かなければ、あたしたち、労働を知らないから、心がふさいで、人生をこんな暗い目で見ているんですわ。あたしたち、労働を軽蔑していた人間から生まれたんですもの……
〔ナターシャ登場。バラ色のドレスにグリーンのベルト〕
ナターシャ  もうお食事のテーブルについてるわ……遅れちゃった……〔ちらと鏡をのぞいて、身なりをととのえる〕髪はこれでいいみたい……〔イリーナに気づいて〕あら、イリーナ・セルゲーエヴナ、おめでとう! 〔強く長い接吻〕お客さま、大勢なのね、あたし、ほんとに気がひけるわ……こんにちは、男爵!
オリガ  〔客間に入ってきながら〕あら、ナターリヤ・イワーノヴナも見えたわね。こんにちは! 〔接吻を交す〕
ナターシャ  おめでとう。あんまり大勢の集りなので、あたし、ひどくめんくらってしまって……
オリガ  そんな。みなさん、内輪の方ばかりですわ。〔困ったように小声で〕グリーンのベルトなの! まあ、それは感心しないわね!
ナターシャ  縁起でもわるいんですの?
オリガ  いいえ、ただ、似合わないから………それに、なにか妙ですもの……
ナターシャ 〔泣き声で〕そうかしら? でも、これグリーンじゃなくて、むしろ、くすんだ色なのに。〔オリガについて広間へ行く〕
  〔広間では食卓につくところ。客間にはだれもいない〕
クルイギン  いいお婿さんが見つかるように祈っているよ、イリーナ、そろそろ結婚してもいい年だもの。
チェブトゥイキン  あなたにもいいお婿さんを望みますよ、ナターリヤ・イワーノヴナ。
クルイギン ナターリヤ・イワーノヴナにはもうお目当てがあるんですよ。
マーシャ  〔フォークで皿を叩く〕ワインを。一杯いただくわ! ええ、楽しい人生だ、いっちょうやってみるか!
クルイギン  お前の操行はマイナス三点だよ。
ヴェルシーニン  この果実酒はおいしいですね。何を漬けたんです?
ソリョーヌイ  ゴキブリですよ。
イリーナ  〔泣き声で〕まあ! いやね! なんて気持のわるい!
オリガ  今日のお夜食には、七面鳥の丸焼きと、おいしいアップルパイが出ますわ。ありがたいことに、今日はわたし一日じゅう家にいられますのよ、夜も家です……みなさん、晩にまたいらしてくださいませね……
ヴェルシーニン  わたしも晩に伺わせてください!
イリーナ  どうぞ。
ナターシャ  こちらのお宅は格式ばりませんのよ。
チェブトゥイキン  生命短し、恋せよ乙女、か。〔笑う〕
アンドレイ  〔怒ったように〕やめてくれませんか、みなさん! よく飽きませんね?
〔フェドーチクとローデ、大きな花籠を持って登場〕
フェドーチク  しかし、もう食事をしてるぜ。
ローデ  〔舌足らずの口調で、大声で〕食事してる? うん、もうはじめてるね……
フェドーチク  ちょっと待てよ! 〔写真をとる〕二枚! もう少し待ってくれ……〔もう一枚取る〕二枚! これでよし、と! 〔二人して籠を持ち、広間に行く、広間ではにぎやかに歓迎〕
ローデ  〔大声で〕おめでとうございます、何もかも一切合財ひっくるめてお幸せを祈ります! 今日はうっとりするようなお天気ですね、すばらしいの一語につきますな.今日は午前中ずっと中学生たちと散歩でした。中学で体育を教えているもので……
フェドーチク  動いてもかまいませんよ、イリーナ・セルゲーエヴナ、大丈夫です!〔写真をとりながら〕今日のあなたはとても魅力的ですね。〔ポケットから独楽をとりだす〕それはそうと、はい、独楽……びっくりするような音をだしますから……
イリーナ  まあ、素敵!
マーシャ  入江のほとりに立つ緑の樫の木、金の鎖、その樫の木にかかり……金の鎖、その樫の木にかかり……〔泣きだしそうに〕まあ、なぜこの詩ばかり? 朝からこの一節が頭にこびりついているわ……
クルイギン  食卓に十三人だ!
ローデ  〔大声で〕諸君、諸君は迷信に意味を認めるのであるか? 〔笑声〕
クルイギン  食卓を囲むのが十三人だと、つまりその中に恋人同士がいるというわけです。あなたじゃないですか、イワン・ロマーノウィチ、ひょっとして? 〔笑声〕
チェブトゥイキン  わたしは罪深い年寄りですよ。それより、どうしてナターリヤ・イワーノヴナがどぎまぎなさったのか、さっぱりわかりませんな。
 〔爆笑。ナターシャ、広間から客間へ走りでてくる。それを追ってアンドレン〕
アンドレイ  いいじゃありませんか、気にしないでください! ちょっと待って……待ってください、お願いです……
ナターシャ  恥ずかしいわ……自分でもどうなってるのかわからないのに、みんなで人を笑いものにするんですもの。今食卓を離れたのだって不作法なことですけど、でもあたしもう……とてもこれ以上………〔両手で顏をおおう〕
アンドレイ  ねえ、お願いだから、興奮なさらないでください、お願いです。僕が請け合います、みんな冗談を言ってるんですよ、善意からなんです。僕の大事な、すばらしいナターシャ、あの人たちはみんな、気立てのいい親切な人ばかりだし、僕やあなたに好意をよせてくれているんです。こっちの、窓の方へいらっしゃい、ここならあの人たちに見えないから……〔あ
りを見まわす〕
ナターシャ  あたし、人なかへ出るのに慣れてないんですもの!
アンドレイ  ああ、青春よ、すばらしい、美しい青春! 僕の大事な、すばらしいナターシャ、そんなに気持をたかぶらせないで! 僕を信じてください、信じて……ほら、だれも見てやしません! 見てやしませんとも! いったいなぜ、どうしてあなたを好きになったのか、いつ好きになったのか、僕には何もわからない! 僕の大事な、すばらしいナターシャ、僕の妻になってください! 愛してます、あなたを愛してます……今までだれのことも一度だってこんなに……〔キス〕
〔将校が二人、登場、キスしているカップルを見て、おどろいて立ちどまる〕

 

 原卓也さんはチェーホフの四大戯曲の翻訳にも取り組んでいるが、この名訳も読書社会から消え去ってしまった。ウオールデンは原卓也訳の四大戯曲を復活させることにした。

原卓也。ロシア文学者。1930年、東京生まれ。父はロシア文学者の原久一郎。東京外語大学卒業後、54年父とショーロホフ「静かなドン」を共訳、60年中央公論社版「チェーホフ全集」の翻訳に参加。助教授だった60年代末の学園紛争時には、東京外語大に辞表を提出して造反教官と呼ばれたが、その後、同大学の教授を経て89年から95年まで学長を務め、ロシア文学の翻訳、紹介で多くの業績を挙げた。ロシア文学者江川卓と「ロシア手帖」を創刊したほか、著書に「スターリン批判とソビエト文学」「ドストエフスキー」「オーレニカは可愛い女か」、訳書にトルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などがある。2004年、心不全のために死去。

 

 

 

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