見出し画像

チェーホフ 少年時代とモスクワ時代

チェーホフの生涯   原卓也


 

少年時代

 南ロシアのアゾフ海にのぞんでタガンローブという港町がある。現在では人口二十万程度で、チェーホフの生地という以外には特に際立った点もない小さな工場町である。夕ガンローグも、十九世紀半ばには南ロシアから外国へ積み出される全貨物の四十パーセントを扱う、かなり栄えた町であったという。
 アントン・パーヴロウィチ・チェーホフはこの町で一八六〇年一月十七日に生まれた。一八五六年、クリミヤ戦争に敗れたロシアが、自国の後進性をあらためて認識しなおし、アレクサンドルニ世の下でさまざまな国内の改革を行なおうとしていた時代であった。ロシアの専制政治の基盤であった農奴制が廃止されたのは、チェーホフの生まれた翌年である。
 
 チェーホフの祖父は、こつこつと貯めこんだ金で、解放令以前に自由の身分を買いとったもと農奴であり、父親のパーヴェルは食料雑貨店を営んでいた。パーヴェルが口やかましい厳格な父親であったのと対照的に、母親のエヴゲーニヤは涙もろい、心のやさしい女性であった。のちにチェーホフは、「才能は父から、心は毋から譲り受けた」と語っているが、父のバーヴェルは無学な商人であったにもかかわらず、バイオリンをひいたり、聖像画を描いたりする、なかなかの才人であったようだ。たしかに、七人兄弟のうち(チェーホフは三男)、わずか二歳で死んだ末娘のエヴゲーニヤは別として、長男アレクサンドルと五男ミハイルが作家に、二男二コライが画家、四男イワンと、妹マリヤが教師にと、それぞれインテリゲンツィヤの道を歩んだことは、いかに雑階級人が文化の主要な担い手となった十九紀後半のロシアとはいえ、やはり当時の零細な商人の家庭としてはめずらしいことと言ってよい。
 
 父はロシア・ナロードの典型のような男で、家庭にあっては徹底した専制君主であり、きわめて信心深かった。そのため、朝早くから子供たちを叩き起こして聖歌の練習をさせ、少しでも間違えようものなら鞭で殴りつけた。「僕には少年時代がなかった」と、チェーホフはのちに述べているほどである。
 
 チェーホフは七歳でギリシャ人小学校に入ったが、ここは一年だけでやめ、九歳の時にタガンローグ古典中学に入学した。古典中学というのは八年制で、ギリシャ語とラテン語が必修とされた。これは六〇年代半ばからふたたび勢いを取り戻した革命運動に対処するため、一種の学生運動対策としてとられた政策の一つであり、特に一八七一年に文部大臣の条令がだされたあと、中学の教科から歴史、地理、ロシア文学の科目が減じられ、その分をラテン語とギリシャ語で埋めることになったため、一年生でラテン語が週八回、三年になるとラテン語、ギリシャ語がそれぞれ週八回もあり、しかもこれらの古典語で及第点を取れないと退学させられることになっていた。
 
 チェーホフは二度留年して十年がかりで中学を卒業し、卒業生二十三人中十二位という成績だったが、だからといって彼の成績があまり芳ばしくないと言うことはできない。なぜなら、古典中学の場合、ぶじに卒業できる者はきわめて少なかったからである。一八七一年から七年間の統計によると、ロシア全体で中学を卒業した者六千五百十一人に対して、中途退学や放校者の数は実に五万一千四百六人ということになっている。また一八八七年にはデリヤノフ文相によって、肉体労働者の子弟は中学への門をとざされてしまったから、もしチェーホフがあと十年ほど遅く生まれていたら、中学にも入れなかったわけである。
 
 ところで、チェーホフが十六歳の時、父親は破産し、モスクワに夜逃げする羽目になった。チェーホフはただ一人、今や他人のものとなったタガンローグのかつてのわが家にとどまり、家庭教師のアルバイトで生活しながら、卒業までの三年間をすごした。モスクワからの仕送りなど望むべくもなく、むしろ逆に、残された家具などを売り払ってその代金を送ってやるほどだった。「人間は自己の運命の創造者だ」という言葉にあらわれている彼の独立心は、この三年間に培われたと考えてよいだろう。
 
 七〇年代後半といえば、ナロードニキ運動が権力側の弾圧と、ナロードの不信によって挫折し、バクーニン主義がしだいに青年たちの心を強く支配していった時代であるし、タガンローグ中学でも革命思想に関心をよせる学生は少なからずいたが、チェーホフはそうした動きに無縁だった。生きることだけで精いっぱいだったのである。
 
 こうして一八七九年、中学を卒業し、大学入学資格試験に通ると、チェーホフはモスクワ大学医学部を選んで上京した。一家より先にモスクワに出ていた二人の兄は、まったく家に寄りつかなくなったし、父親は倉庫番で月三十ルーブルという、自分一人がやっと食べていけるだけの収入しかなく、一家の基本的な収入はチェーホフがタガンローグの町から受ける月二十五ルーブルの奨学金と、彼がいっしょに連れてきた二人の友人の下宿料四十ルーブルであった。しかし、これだけの金で大人数の世帯がまかなえるはずはなく、チェーホフは医学の勉強のかたわら、コントやユーモア小説を書きまくって生活を支えることになった。
 

モスクワ時代

 チェーホフが小説を書きはじめた一八八〇年代という時期は、ロシア史の上でしばしば「たそがれの時代」という言葉で表現される。七四年夏の「人民の中へ」運動が挫折したあと、ナロードニキの政治結社「土地と自由」は七〇年代末にいたって、農民の啓蒙と意識変革を唱える「土地総割り替え」派と、テロリズムによる先制打倒を唱える「人民の意志」派に分裂し、後者が主導権を握っていた。そして、一八八一年三月、専制政治の象徴であるツァーリ、アレクサンドルニ世は爆弾で暗殺されたのであるが、このことによって弾圧はいっそう徹底したものになった。検閲制度は強化され、もはや革命運動はおろか、いかなる民主主義運動さえ考えられぬほどの状況が到来し、現実に対する絶望と無関心が広く社会をおおいつくした。
 
 文学の世界でも、八一年にはドストエフスキーが、八三年にはツルゲーネフがこの世を去り、卜ルストイは八二年の「懺悔」によって宗教思想家としての道を歩みはじめていた。本格的なまじめな作品は敬遠され、むしろ肩のこらない軽い読み物が喜ばれた。当時、単なるくすぐりや、ちょっとした諷刺を売り物にするユーモア雑誌がおびただしく氾濫していたことは、いわゆる、純文学の流れが、この時期に一時停滞しかけたことを物語るものである。それらの雑誌のうち、「とんぼ」「めざまし時計」「観察者」「世評」「モスクワ」「破片」「光と影」「みちづれ」「なぐさめ」「こおろぎ」などが、青年チェーホフの小説やコント、時評などを生みだす舞台となった。
 
 チェーホフはそれらの雑誌に、中学時代の綽名であったアントーシヤ・チェホンテのほか、チーホンテ、アントーシャ、脾臓なき男、患者なき医師、短気な男、わが兄の弟、など実にさまざまなペンネームで作品を書きまくった。最初のうちは、百行どまりで一行五力ぺイカの原稿料だったから、百行のものを一篇書いてもわずか五ルーブルにしかならす、生活費をかせぐには文字通り寝食を忘れて書きつづけなければならなかった。しかも、あまり多すぎて共喰いに近い状態にあった週刊誌は、必ずしも経営が楽とはいえなかったため、せっかく原稿を書いても、稿料がもらえなかったり、稿料の代りに芝居の切符やズボンを当てがわれたりすることもまれではなく、とにかくできるだけ数多く書くことが必要であった。
 
 チェーホフが「隣りの学者への手紙」でユーモア作家としてデビューして以来、文壇に認められるまでの数年間に書いた短篇・掌篇は三百篇以上にのぼる。「隣りの部屋では遊びに来た兄一家の子供が泣き叫び、別の部屋では父がレスコフの『封印された天使』を大声で母に朗読してやっているような、およそ非文学的な生活環境の中で、本業の医学の勉強をすすめながら、その合間に小説を書くには、朝の四時頃にやっと床に就くような無理を重ねなければならなかった。
 
 身長ニメートルの、肩幅の広い青年であった彼も、もともと身体が丈夫な方ではなかったから、こうした過労の連続が身体にこたえぬはずはない。特に大学を八四年に卒業したあと、サドワヤ・クドリンスカヤの自宅に「ドクトル・チェーホフ」と表札をかけて開業してからは(この家は現在モスクワのチェーホフ博物館になっている)三から五ルーブルという安い料金で診察や往診をするかたわら、『ロシアにおける医療の問題』というテーマで博士論文執筆をはじめたが、患者が多くなればなるほどかえって経済的には苦しくなるため、執筆に精をだすことになり、こうした無理がたたって、八四年の末、「ペテルブルグ新聞」のためにスコピン銀行頭取の使い込み事件を取材している時、最初の喀血をするにいたった。この結核はこの時以来チェーホフの身体をむしばみつづけ、ついには四十四歳という若さで彼の生命を奪うことになるのである。
 
 

いいなと思ったら応援しよう!