果てしなく高く遠い空を掴め
今年のNHKの大河ドラマは青天を衝けというタイトルである。
今度の新札の一万円札の肖像画として取り上げられる渋沢栄一を主人公とした物語だそうだ。
タイトルのように渋沢の服の色が真っ青な色をしている。
明智光秀の頃から随分とカラーに拘りを見せているようである。
恐らく映像表現が格段とアップしたことをアピールするためのものなのだろう。
渋沢は幕末から明治大正昭和を生きた人物なので果たしてどこまで出来るかだが90年以上の人生を一年以内に収めるためにざっくりした感じになるのではと思う。
それはさておき、青天とはまたこれも志が高い。
蒼天の拳みたいだし、どこかしら本宮ひろ志っぽい。
天とは中国で言うところの神や唯一絶対、唯一無二と評される概念に近しい。
元々遊牧民が考えていた神様の概念で中国の歴史に度々その唯一絶対的存在として「天」が出て来る。
遊牧民の言葉で「テングリ」ということらしい。
そのテングリから頭を取って「天」と音訳されて広まっていく。
中国は元々漢字があったと言うわけではなく、文字も出来る前から言葉があり、神様と対話をする為に文字が刻まれて来たという歴史がある。
常に外から持ち込まれて漢字として表現されていく。
勿論漢字は漢代に出来たものなのでそれ以前(の以前)は甲骨文字で今で言うところのピクトグラムのようなものだった。
酪農の酪はラクトアイスのラクト(アラック)と同じで遥か西方よりやって来た乳製品を意味する。
悪魔の魔はインドのマーラのマを音写したものでこれも外からやって来たものの一つ。
前述のエントリーにもあったが、中国は外から持ち込まれたものを蓄えて大きくなって来た歴史を持つ。
そうやって繰り返して来ては今の超巨大国家となって来た。
国家は巨大になれど人々は狭く小さな世界に身を窶す。
遥か昔からその傾向は変わらず、ネットが発達しようが自分を取り巻く世界にしか関心がない。
と、前回はそう結論付けた。
井蛙という言葉がある。
井蛙とは井の中の蛙大海を知らずの略で、荘子の言葉である。
原文
北海若曰、井鼃不可以語於海者、拘於虚也。夏蟲不可以語於氷者、篤於時也。曲士不可以語於道者、束於教也。今爾出於崖涘、觀於大海、乃知爾醜。爾將可與語大理矣。
読み下し
北海若曰く、井鼃には以て海を語るべからざるは、虚に拘ればなり。夏蟲は以って冰を語るべからざるは、時に篤ければなり。曲士は以って道を語るべからざるは、教へに束ねらるればなり。今爾崖涘より出で、大海を観、乃ち爾の醜を知る。爾将に与に大理を語べからんとす。
現代訳
北海の神の若が言うには、「井の中の蛙と海のことを語ることができないのは、虚(くぼみ)のことしか知らないからである。夏の虫と氷のことを語ることができないのは、もっぱら夏の時季のものだからである。曲士(田舎者、又は心のよこしまな人、或いはあることに秀でる人とも)と「道」の事を語ることができないのは、ある教条にとらわれているからである。今、あなたは狭く小さな川岸から出て大きな海を観て自分の愚かさを知ったから正に真実を語ることが出来るようになったのである。」と。
別に中国人全体がそうであるとは思わない。
ただこうした現代でもあの一連の動きを見る限りこの故事成語は今でも生きているのだなと実感する。
ヤンキー社会という言葉がある、らしい。
半径数十メートルの世間や社会にしか関心がなく横の繋がりだけで生きている人々のことを指す。
SNSと雖もその傾向は更に可視化されており、自分の関心ごとの繋がりにしか全く興味を示さない。
政治にもっと興味や関心を向けろという声は遥か昔から言われてきたことだ。
半世紀以上経って益々忌避されてしまったようにも感じる。
天を仰げば空が一つということに気付かされる。
真実は一つである。