みじかい小説#194『酢の物』
6月も中旬となった。
全国で梅雨入りの知らせが報じられだした。
外は雨、窓に細かな雨粒が打ちつけられ、ガラス全体に縦横無尽な大河が形成されている。
壁の両側にそびえる天井まで届く本棚に挟まれ、誠はひとり、3畳の書斎のなかでコーヒーに口をつけている。
むかっているパソコンのモニタは薄暗い室内でほんのりと白い光を放ち、書きかけの原稿は手つかずのまま、先ほどから画面内で放置されている。
誠は無言でモニタに目をやる。
原稿のタイトルは「10歳年下の妻との出会い」だ。
世に伝染病が広まったのがちょうど2年前の春、誠はそのとき、完全にリモートワークに移行した。
そしてフリーランスの作家として独立したのが1年前の夏。
独立時は、退社した会社のコネをフルに利用したのだっけ。
それ以来、幸運なことに、誠への原稿依頼は途切れたことがない。
さて、そんな誠が今、手がけているのが、男性雑誌向けのコラムだ。
誠には1年前に知り合い、この春ゴールインした10歳年下の妻がいるが、それを嗅ぎつけたとある雑誌の編集者から、今回のコラムの依頼が舞い込んだのだった。
誠は二つ返事でオーケーを出した。
「10歳年下」という響きが、世間でどういった印象をもって受け取られるのかを、誠はよく知っている。
「やはり男性は若い女性の方がいいのだ」「妻は遺産目当てだろう」などというレッテルは、独身の時にまさに自分が抱いていた印象だ。
そんな誠は、偶然にも、とある居酒屋で、現在の妻と出会った。
最初は互いに緊張していたが、いざ会話をはじめてみると、二人の会話は非常に盛り上がり、まるで旧来の知古のように思えるのだった。
「10歳年下だから好きになったのではない。好きになった相手がたまたま10歳年下だっただけである」と、誠はコラムに堂々と書く。
誠の言葉に嘘はない。
そりゃあ誠も一男性である。
下半身を主軸に考えれば、若い女性に無条件に発情するのは自然なことだ。
しかし、それにしたって、誰でもいいというわけではない。
独立開業するくらいである。
誠のプライドは、自身で自覚しているが、人並み以上である。
つきあうなら、この俺に見合う女性でなければならない――。
誠自身も、己に厳しい基準を設けていた。
だからこその、えり好みであった。
そんな事情もあり、誠は長年、恋人を作っていなかった。
寄って来るのは、いずれも男受けを狙う若い女性ばかりで、彼女たちは揃って誠の財布を狙っていた。
たまに彼女たちと遊ぶことはあっても、誠の心は満たされなかった。
そこに登場したのが、今の妻であった。
その時、誠は50歳、妻は40歳。
「なんだ、妻は全然若くないじゃないか。50歳の男性が20代の女性と結婚するくらいのインパクトはないな」という声が聞こえてきそうだが、それでも「10歳年下の妻」には違いない。
誠はそんなレッテルを予想しながら、原稿を進める。
また、一部のおせっかい焼きの人たちは、誠に言った。
「どうせ結婚するならもっと若い子の方がいいんじゃない?子宮も若いし」と。
それを思い出しながら、誠は筆に力をこめる。
「好きになった相手がたまたま40歳だっただけだ。俺は年齢で結婚したわけじゃない」と。
誠のスタンスは変わらない。
誠はこの日、8時間かけて、原稿を仕上げた。
誠の原稿は何回かの手直しの末、無事某男性向け雑誌に掲載された。
反応は様々だった。
女性陣の感想は「既に十分な大人である二人の結婚」としてと好感を得たのに対し、男性陣の感想は「俺も50だけど40の女は無理」といった辛口で下半身に正直なものが多かったのが印象的だった。
「私にも読ませて」
誠がネットの感想を見ていると、妻が音もなく後ろに立っている。
妻はいつでも忍者のようである。
「いいよ」
誠は妻に椅子を譲る。
「キッチンに買ってきた酢の物があるけど、一緒に食べない?」
ネットの感想を面白そうに読みながら、妻が言う。
「いいね」
誠は短く同意する。
だから俺は、妻が好きなのだ。
酢の物を口に運びながら、ひとり満足気にうなずく誠であった。