みじかい小説#177『木漏れ日』
ほんのりとした赤身が頬にさして、梓の顔色は心持ちよくなったように感じられる。
303番、4人部屋の右奥、窓際のベッドに、宮島梓は横になっている。
窓の外には欅の木がそびえ、晴れた日の午後、木漏れ日が室内にまで及んでいる。
「宮島さん、体温はかりますね」
他の患者との間を仕切っていたカーテンを、看護師が勢いよく開ける。
梓の返事は無い。
「今日はいい天気ですね」
看護師は言う。
しかし、やはり梓の返事は無い。
梓が入院して、一ヶ月を過ぎようとしていた。
入院のきっかけは、軽い胃炎だった。
もともと食が細く、朝食も抜きがちで喫煙者だった梓にとって、それは予想できたことだった。
けれども今度は事情が違った。
「念のため、精密検査をしておきましょう」
梓の胃のレントゲン写真を見ながら、担当医はそう言ったのだった。
それから、梓が胃癌と診断されるまで、それほど時間はかからなかった。
「胃癌――」
梓は、その響きに頭が真っ白いなった。
「癌」というだけで、もう先が長くない気がした。
「癌」と聞くだけで、今までの経験がすべて意味の無いもののように思われた。
なぜ。
なぜ私が癌なのだろう――。
梓は自問した。
絶望感にさいなまれ、夜中、何度もひとりで泣いた。
しかしそんな梓をせせら笑うかのように、時間はただ一方的に、淡々と、過ぎていった。
「胃の2/3を切るしかありませんね」
医者からそう言われたのは、半月を過ぎるころだった。
梓は耳を疑った。
切る――?
何を――?
医者の言葉は、梓には届かなかった。
それから、梓は考えるのをやめた。
死ぬのなら死ぬのだろう。
生きるのなら生きるのだろう。
そんな境地になった。
手術はとどこおりなく進められた。
術後の痛みに耐えながら、梓は思った。
神様――、この痛みを乗り越えることが出来たら、きっと私は真面目に生きます。煙草もやめて、3食をきっちりとって、真面目に生きます。だからどうか、私に時間をください――。
梓はただひたすら、一心に祈った。
それからまた半月が経過した。
梓は順調に回復している。
このごろ、梓はめったにしゃべらなくなった。
ひとり静かに窓の外を見ることが増えた。
看護師が話しかけても、ろくに返事もしなくなった。
病院には様々なステージの患者がいる。看護師はそれを心得ているのか、そんな梓のことを、ことさら心配もせず放っておいてくれている。
今日も梓は窓の外を眺める。
窓枠の中を、欅の葉が気持ちよさそうに揺れている。
目の前の布団の上には、そんな木の葉をすり抜けてきた木漏れ日が、まだらに模様をなしている。