みじかい小説#183『冷やし中華』
5月に入り、25度前後の日が多くなってきたころ、コンビニには冷やし中華が大々的にならびだす。
健二は、ああ、今年も冷やし中華の季節が来たのか、と思う。
去年の今頃、自分は何をしていたろうか。
健二は思う。
そうそう、去年のゴールデンウイークは妻の愛子と二人で、田舎の温泉に行ったのだっけ。
そこで喧嘩になって、口もきかずに帰ってきたのだ。
それから一週間ほど口を利かないまま過ごし、日曜の晩の食事の席で、互いに謝りあったのだ。
そうだそうだ。
健二は思い出して少し笑う。
今、愛子は家にいない。
夜、家に帰ってきても、健二は一人だ。
洗濯物はたまっており、がらんとした部屋の中には脱ぎ散らかされた衣服が散乱している。
キッチンのシンクには、洗い物がたまっている。
幸いゴキブリは現れていないが、今のままだとやつらが住み着くのも時間の問題だろう。
今晩こそは、一人でもきちんと洗濯をして、洗い物をしなければ。
健二は思い出して、深く重い溜息をつく。
愛子が家を出て行ったのは、三日前である。
「じゃあ、一人で頑張れるよね」と言って、愛子は出て行った。
健二は「もちろんだ」と言って見送った。
しかしその言葉も、今やむなしく聞こえる。
愛子がいなくなった家の中は火が消えたように寂しい。
毎晩、一人で汚れたシーツにくるまることに、健二は慣れることができない。
いなくなって初めて分かる愛子の大きさ――。
自分はこんなに弱い人間だったのだろうか。
そんなに依存心の強い人間だったのだろうか。
愛子がいなくなって、健二はそんなふうに自問することが増えていた。
もうすぐ。
もうすぐ健二には子が生まれる。
健二のはじめての子だ。
愛子は一人でがんばっている。
俺も一人でがんばらねば。
違う場所にいながら、互いに戦い、支え合うのだ。
俺たちは最強の夫婦だ。
健二は気合を入れた。
そして、目の前に並べられた冷やし中華の一つを手に取った。
来年の今頃、笑っていられるように。
健二は目の前の冷やし中華に誓うのだった。