
よみびとしらず #03 聖子 第十二章 良成
すこし肌寒い風の吹くなか、午後のあたたかな日差しがあたりを照らしている。
都の南のはずれに建つ妙蓮寺にも、その風は吹いていた。
ただし杉林のなか、日差しはあまり届かない。
膝頭まで及ぶ尾花を踏み分け、良成は霊力を法具に集めながら、坊主等との間をとっていた。
生徒二人を陰陽寮に走らせて、もう半時、良成は坊主等をその場に止め置いている。
法具に霊力を伝え続けている限り、十数人の坊主等をそこへとどめ置くことが出来ているが、半月で仕上げた良成の霊力は既に尽きようとしていた。
額には脂汗が浮き、全身は小刻みに震えている。
この法具から手を離すこと、それは即、死を意味していた。
良成は必死にこらえていたが、ついに法具から放たれる光が途切れ途切れになっていく。
そのぶんだけ自由になった坊主等は、口をきき始め、その中の一人が良成に向かい言葉を向けた。
「雅楽寮の方とお見受けする。このたびのこと、おぬしは関係が無いのであろう。大人しく我らを通せば見逃してやる。ひけい」
良成はその言葉を瀕死の体で聞いていた。
「そうだねえ、ではなぜ人々の平安をやぶる。誰も都の転覆なぞ望んではおるまい」
それだけ言うと良成は両手で支えている法具に再び力をこめた。
すると今度は先ほどの坊主とは異なる坊主が口を開いた。
「お前はこの都がいかにゆがんでおるかを知らぬ。これは私怨ではないのだ」
「私怨だろう。遷都にあたり時の帝が新たな教えを取り入れたのは時代の流れ。誰のせいでもない」
良成は息も絶え絶えに言い放つ。
法具が放つ光は、もう半時前の輝きではない。
坊主等はそのぶんだけ少しずつ動きを自由にしていく。
「違うな。新たな教えがはびこってしまった以上、都は一度清めねばならぬ」
また異なる坊主が口を開いた。
「どうも話が通じないねえ。しかしこちらも諦めるわけにはいかないものでねえ」
そう言うと良成は、法具にあらんかぎりの霊力をこめた。
なぜ俺がこんな目にあわなければならないのか。
良成の内心にそんな思惑が浮かぶ。
もともと良成は諦めるのが得意であった。
求められるままに動き、軋轢を生まぬよう差配し、己の願望はいつも後回しであった。いや、後回しというより諦めていたといったほうが正しい。
良成は諦めこそが己の人生であると思っていた。
その己が、今こんなにも諦めずにいる。
法具をかまえた汗だくの顔に、ふうっと苦笑いが浮かぶ。
洋子――。
なぜだか女の顔が浮かぶ。
もう諦めてもよいだろうか。
そんな思いがおくびまで出かかる。
それを賢明に押し戻すの繰り返しである。
少し息をついた瞬間であった。
坊主集団から何かが飛び出した。
かと思うと、それは良成の体を貫いていた。
良成の体を貫いたそれは、弧を描いて宙を飛び、坊主集団の中へ戻って行った。
何が起きたか分からなかった。
ただ妙に体が熱い。
いや冷たい。
どちらなのだろう。
分からない。
ただ見えたのは、坊主集団の元へ飛び戻ってゆく金色に輝く五鈷杵であった。
次の瞬間、良成の口元にまで血がいっぱいになりあふれた。
良成は自分の腹をまさぐった。
違和感がある。
するとまさぐる手が、自分の体に開いた風穴を突き止めた。
その時、良成は安堵した。
ああ、ようやく諦められる――。
良成をあたたかくて穏やかな空気が包んだ。
洋子は元気だろうか。
良成はその場に仰向けに倒れ、木立の隙間から降り注ぐ陽光を受けながら、ただ涙した。
もう、いいだろうか――。
背の高い尾花を仰ぎ見た。
良成の目は一筋の涙を流したのち、そっと閉じた。
「良成様」
妖界では、自分の形代を取り出し成り行きを見守っていた八郎がいた。
先ほどまで坊主等とやりとりをしていた良成の声が、今はもう、聞こえない。
最後に聞こえたのは、良成の「洋子」というか細い声であった。
八郎は静かに手を合わせ形代を胸元にしまった。
また同じく陰陽寮では、夏宮、義則、聖子、犬千代の四名が、形代を前にしていた。
「師匠」
「良成殿」
みなが良成の最期をみとめた。
聖子は涙し、犬千代は嗚咽をもらした。
夏宮と義則は、静かに手を合わせた。
都の空に百鬼夜行が現れた。
それは人から人へと伝わり、いまや都で知らぬものはいないというほどの噂となった。
夏宮と義則は、対頼明、対坊主集団のため、陰陽寮から集められるだけの人員を集めた。
そうして人員は、願良寺へと赴く夏宮の一派と、妙蓮寺へと赴く義則の一派とに分けられた。
「何かあれば『聞耳』に向かい語りかけよ」
と、命がくだった。
玄庵の繰り出した『聞耳』に、夏宮が新たに呪を重ねたのである。
改められた形代は、人数分に増やされ、皆に配られた。
同じく『聞耳』により妖界でその様子を聞いていた八郎は、『入り口』の近い願良寺を目指し、ひとり宙に身を投じた。
義則一派が妙蓮寺の傾いた四脚門の前に到着した。
総勢二十名。その中に聖子と犬千代も含まれている。
一派は足早に寺の裏にまわった。
寺の裏には尾花がおいしげり、秋の夕暮れが近いこともあり、そこここで鈴虫が鳴き始めていた。
と、先頭を行く者がある場所で止まった。
義則が招かれるまま歩を進めると、そこには法具を握りしめたまま息絶えている良成の姿があった。
「良成殿」
義則が呼ぶが返事はない。
「おいたわしや」
周囲の者がしのぶ。
「おのれ坊主等め」
義則に続いてきた聖子と犬千代がいきり立つ。
坊主等はまだ『入り口』の付近にたむろしていた。
義則は、そのまま駆け出していきそうな聖子と犬千代を慌てて止めた。
その声を聞き、坊主等のうちの数人が一派の到着に気づき振り返った。
仕方なし、義則は坊主等に向かい叫んだ。
「悪いがここから先へは通さんぞ」
急な大声に坊主等がにわかに色めき立つ。
義則は手勢を、坊主等と対峙する者と、『入り口』の封印を解除する者とに割いた。
一派は、一等大きな杉の木に向かい二手に別れ進んでいった。
そのころ夏宮が率いる一派は願良寺に到着していた。
総勢十余名。
小坊主らの躯が点々と転がっている中、異様な霊気を垂れ流す講堂に引き寄せられ歩みを進めていく。
近づくと一つだけ開いた雨戸を見つけ、一派はそこから中の暗闇に躍り出た。
「頼明、覚悟」
闇に向かい、夏宮は叫んだ。
しかし不気味なほどに何の音もしない。
夏宮は一派に警戒を維持するよう命をくだし、あたりを探った。
すると二人分の躯が、講堂の最奥、一等暗い場所で見つかった。
呼ばれるままに夏宮は歩を進めた。
気の付く者が、躯の傍で灯りを灯してくれていた。
躯の正体、その一方は康親であった。
「初春――」
幼少期を同期として学んだ夏宮であったが、思わず康親の幼名が口をついて出た。
思い起こされるのは、懐かしき幼少の日々であった。また、成長してからの互いの日々であった。
夏宮は康親の躯に、そっと手を当てた。
脈はない。
夏宮は名残惜しそうにその手でもって康親の手首をさすった。
そして、もう一方の躯は。
そちらにも灯りを向けてみると、それはまさしく息絶えようとしている玄庵であった。
もはや虫の息である。
夏宮は急いで口元に耳をやった。
何かしゃべっているかと思ったが、暗く開いた口からは、頼りなさげに吐息があふれるばかりであった。
「玄庵殿」
夏宮は玄庵の耳元で叫んだ。
「よう持ちこたえてくださいました。もう、大丈夫でございます」
夏宮は祈るような気持ちで言葉をつなげた。
夏宮はなおも耳元で語りかける。
「頼明めはお任せくだされ。ご安心めされよ」
夏宮の目に涙が浮かぶ。
その声が聞こえたのかどうか、玄庵の口から、ひとつ長い吐息がもれた。
それを最後に、もう玄庵の口からは、もう何も出てこないのであった。
「入れ違いよのう、ほ」
夏宮の全身が途端にこわばった。
暗闇に響いたその声は、確かに聞いたことのある頼明の声であった。
夏宮は急いで一派を集合させ、こちらも頼明と対峙する者と、『入り口』の封印を解く者とに分けそれぞれに命をくだした。
しかし頼明はその間を与えなかった。
「そうはゆかぬよ、ほ」
言うと頼明は、二手に分かれようとする夏宮一派を、まとめて水龍の中に飲み込んでしまった。
息をつかせぬ一瞬の事であった。
夏宮以下十余名は、頼明の展開した巨大な水龍の中に飲まれた。
みな互いを確認し合い、息の続く者はそれぞれ呪を展開するが、頼明の霊力で強さを増した水龍の体に風穴を開ける事は出来ずにいた。
そんな中で、夏宮は一点に狙いを定め、渾身の一撃を繰り出した。
「『火ノ鳥』」
同じ水龍に飲まれた八郎が、同系統の水龍で風穴を開けたのに対し、夏宮は対極に位置する火ノ鳥を繰り出した。
途端に、巨大な水龍は体をねじって暴れまわり、その後けたたましい叫びを聞かせたかと思うと、一瞬で霧散してしまった。
飲まれた一派はみなその場に放り出された。
受け身を取り床に着地した夏宮は、すぐさま命をくだした。
「今じゃ。ゆけい」
その言葉を受けて、『入り口』の封印を解くため、半数の人員が勢い良く講堂を飛び出していった。
後には夏宮と、残りの半数の人員、それに暗闇の中に頼明だけが残された。
講堂から飛び出していった夏宮一派の半数は、寺の裏手にある小さな滝を目指した。
教わっている通りであれば、その滝の裏に『入り口』が設けられているはずであった。
記録によれば、開けられたのは三十年ほど前である。
一派は、すぐにそれを見つけた。
近寄り、封印されていることを確認する。
互いに合図をし、配置に着く。
「『おおん』」
代表をつとめる者が、略式の呪を唱え、周囲を囲む他の者とともに結界を張った。
外から結界を張ることで、中の封印を解こうという腹積もりである。
みな腹の底から声を出し、小さな滝のまわりは一時異様な雰囲気に包まれた。
どれくらい経ったろうか。
しばらくすると『入り口』に変化が見られ始めた。
『入り口』の端の方から小さな物の怪が溢れ出してきたのである。
小さな物の怪たちは歓喜の声を小さく響かせながら人界へと消えていく。
「その調子じゃ」
その時であった。
『入り口』の隙間がちょうど人の握りこぶし一つ分になった時である。
人の指が、妖界の方から覗いた。
「そのまま、そのまま」
指の主の声が聞こえる。
一同はぎょっとして危うく呪を止めそうになった。
しかし指の主は続ける。
「その意気じゃ。早く封印を解いてくだされ」
それを聞くに、どうやら敵ではないらしい。
新手の物の怪か。
『入り口』の隙間が、人ひとり分くらいになった時であった。
一人の男が、その隙間から現れた。
それは願良寺にたどり着き、『入り口』の傍で封印が解かれるその時を待っていた八郎であった。
「いや有難い。行きかえりました。やはり人界の空気はよい」
八郎は爽快な笑みを浮かべそう言い放った。
一同は、いきなりの事に驚きはしたが、その人物が事前に聞かされていた八郎某である事に気づき、続きを唱え続けた。
八郎は無事、人界へ戻ることが出来たのである。
無事人界へ降り立った八郎は、霊力の濃い講堂へと一目散に駆け出した。
そうして一つだけ開いた雨戸を見つけると、すぐさまそれへ飛び込んだ。
講堂の中は暗い。
暗い中から「ほ、お仲間じゃの」と声がした。
頼明の声じゃ――。
八郎にはすぐに分かった。
おのれ師匠のかたき。
八郎がそう、全身をこわばらせた時であった。
「八郎か」
暗闇から声がする。
慣れてきた目で声のした一層暗い方を見やると、ぼんやりと人の輪郭が浮かび上がってきた。
「その声、夏宮様か」
八郎は声だけを頼りに呼びかける。
「八郎、はよう、こちらへ」
八郎は呼ばれる方へ速足で向かった。
するとようやく夏宮の顔が見える距離まで近づいた。
同時に、二体の躯が八郎の前へあらわになった。
八郎の背に嫌なものが走った。
「これは」
「康親様は分かるでしょう。こちらは玄庵様。私達が来た時にはもう……」
八郎はその場に膝を着くと、そっと玄庵の手に触れた。
「ありがとうございます」
そう声を振り絞ると、八郎はすっくとその場に立ち、躯に背を向け頼明に向かって言った。
「頼明よ、追い詰めたぞ。おぬしの負けじゃ。観念せい」
八郎の声が、がらんとした講堂内に響き渡った。
京の都に百鬼夜行が現れた。
それを見た者多数。
噂は人の口から口へと伝わった。
百鬼夜行はそんなことなど知らぬとばかりに、うねりを伴って願良寺に達した。
いまや頼明は不利であった。
頼明の相手は、夏宮一派に百鬼夜行、八郎、それに封印を解かれた『入り口』から溢れ出してくる恨みを持った物の怪たちであった。
流石にこれらを一人で相手するのは骨が折れるであろう。
誰もがそう判じた時である。
「これは遅いお付きで。ほ、ほ」
講堂の暗闇に、そんな言葉が躍った。
それを聞くことのできた者は幸運であったのか、不運であったのか。
南の空に、胡麻粒のように、袈裟をひるがえし飛び来る坊主の集団があった。
それは見る間に米粒大となり、一息吸うごとに近くなった。
総勢五十余名の大集団であった。
三度呼吸を重ねたとき、それはもう目の前に迫っていた。
彼らの袈裟の色は朱。
その色は大和国の色であった。
目視で彼らを見定めた者たちがいた。
願良寺の裏の『入り口』の封印を解いた、夏宮一派の者たちである。
「急いで夏宮様へ知らせよ」
その集団の頭がすぐさま使いをやったおかげで、夏宮たちには坊主集団を迎えるだけの時間が出来た。
「頼明が空を飛んでおったのは、大和国へ行くためだったか。あの声の主は今来たる坊主らか」
そう言ったのは八郎である。
「ほ、ご名答」
暗闇から乾いた返答があった。
間を置かずに、坊主等は講堂へとなだれ込んできた。
「やあやあ、頼明殿、お待たせいたしました」
五十余名の坊主等がぞろぞろと一つ空いた戸から入って来るのは圧巻であった。
あっという間に、講堂は坊主でいっぱいになった。
講堂の片隅へ追いやられたのは夏宮一派であった。
「ようもこれだけの頭数を集めたものね」
夏宮がつぶやく。
坊主等は松明を灯し、講堂の中に立てて行った。
外はもう夕暮れであった。
妙蓮寺では義則一派が、こちらも坊主の集団と相対していた。
日暮れが近づき、杉林がすすきに埋まるなか、秋の虫の声が盛大に響いている。
二手に分かれた義則一派は、坊主等の術に押し戻され、すすきの中に散らばり、もはや一刻が過ぎようとしていた。
義則はその間みなの周囲に結界を張り、ひとり並々ならぬ霊力を捻出し続けていたが、その勢いに陰りが見えだしていた。
坊主の一人が口を開く。
「さあどうした。我らの五十年を超える鍛錬の成果を見せつけてやろうぞ。なまっちろい陰陽師などに遅れなどとらぬわ」
坊主頭の集団から高笑いが起こる。
すすきの中、瀕死の義則がうめく。
聖子はそばに駆け寄り義則を制す。
「動かないでください。もう……」
義則に、もう霊力は残っていなかった。
みな死を覚悟していたが、陰陽師でない聖子と犬千代だけは違った。
それを知る義則は聖子と犬千代に対して言った。
「願良寺へ走ってくれるか。夏宮に伝えておくれ。妙蓮寺は敵の手に落ちたと」
「我らだけ逃げるわけにはまいりません」
「命令だ。行くんじゃ」
夏宮には嫌な予感しかしなかった。
また走るのか。
また置いていくのか。
また――。
夏宮の瞳がうるみ、大粒の涙が頬を垂れた。
「行け」
義則はその涙を手ですくって言った。
夏宮はこくんと頷くと、犬千代を伴い一目散に、振り向かず、決して振り向かずに、その場を後にした。
聖子は走った。
走る聖子の頭の中には、ひとつ言葉がぐるぐるとまわっていた。
「なぜこんなことに――」
考えても考えても、聖子には分からなかった。
半月前はみなで切磋琢磨し意気揚々としていたではないか。
みなの顔は笑顔であったではないか。
それが、いざふたを開けてみると、ぽろぽろとみな、死んでゆく。
なぜ――。
聖子には分からなかった。
いつから――。
どこから調子がおかしくなってしまったのか。
聖子には分からなかった。
聖子は走った。
何も考えたくなかった。
後ろをついてきているはずの犬千代が、いつの間にか姿を消していたことにも気づかなかった。
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