
よみびとしらず #04 光 第三章 恵敬と良俊
鼎のおじさんこと次郎は、村から東へ伸びる道の上にあった。
向かうは一路、興福寺である。
侍が村に入ってすぐ、次郎は己の「つとめ」を思い出していた
村に何か異変があるときには、村の年長者が興福寺へ遣いを出すことになっていたのである。実際にこの決まりを利用したのは、村に大火のあった二十年も前のことであった。以来この決まりは村の年長者が順番につとめる、名ばかりのつとめとなっていた。
今年は次郎の番であった。
ここへきて、そのつとめを果たすときがきたのである。
次郎は侍の村への侵入を察知すると、ひとり馬屋へ走った。侍たちに気取られないよう歩いて回り道をして、村の東へ出たところで馬に乗った。
村の東には、興福寺へ向かう大通りに通じる細道が一本通っている。
次郎は、その道をひたすらに走った。
早ければ半時で着く。
往復で一時である。
次郎はひたすらに、走った。
「これは見事」
数人の坊主頭が、一つの書を囲んで車座になっている。
足元から冷気の上がってくる板敷の部屋に、灯るあかりは蝋燭がわずか二本。地下に設けられたこの部屋には、他にあかりらしいものは何一つない。時折どこか遠くから、水のしたたる音が不規則に響いてくる。
「そうじゃろう。かの鎌足の手によるものじゃ」
書を掲げていた者が、みなの顔を見渡しながら声高に述べる。
その言を受け、一同にどよめきが起こった。
恵敬と良俊も、その中にあった。
「書庫に入ることが出来るとは、今日はついておりますね」
良俊が、恵敬にだけ聞こえる声で言った。
「なんでも見張りの者にいくらか渡したのだとか」
「なんと」
「そうでもせねば一生拝めぬものばかりよ。見よ、この宝の山を」
「壮観でございますねえ」
二人は周囲を見渡した。
坊主頭数人を囲む形で、書架が四方に延々と伸びている。その高さは大の大人の背丈二人分をゆうに超えるほどである。一台一台には、古来からの伝わる宝物が所狭しと収められている。その数、数万――。
そびえ立つ書架に埋もれるようにして、今日、坊主たちは「探求心」という煩悩に負け、ここに忍び込んでいる。
「私もいつか、ここに名を連ねたいものでございます」
先日十七になったばかりの良俊が、豪語する。
「私はこれらの品を所有する者になりたいがな」
一つ年上の恵敬が言う。
互いの抱くひそやかな野望が、二人の性格をよく表していた。
二人は顔を見合わせ、笑った。
二人のつきあいは十年ほどである。
ある雪の日に、良俊は母に連れられ興福寺の門をくぐった。母は、いつか迎えに来るからと言い残し、良俊を寺にあずけた。そこで最初に仲良くなったのが、一つ年上の恵敬であった。母恋しさに泣く良俊を、恵敬は懸命になぐさめた。そのうち母がもう現れないのを悟った良俊は泣くのを止め、行に励むようになり、同期の中で主席にのぼりつめ今に至る。恵敬はそんな良俊の姿を、最も近くで見守って来た。二人は、どこへ行くにも一緒であった。
今日も、昼餉の片づけの番を終えた良俊を、恵敬が誘ったのである。
「しかし、恵敬に誘われとんでもない悪事に加担してしまいました」
「何を言う。乗り気だったではないか」
「知ってしまったからには次を期待してしまうではありませぬか。なんと罪深いことを」
「まだまだ修行が足りぬということよ」
言って二人は笑う。
その時であった。
「誰ぞ。そこにおるのかえ」
しわがれた声が、天から降ってきた。
「儂の弟子たちがおらぬのじゃが、ここかえ」
声の主は、地下へ続く階段を降りてくる。
少ないあかりに照らされて、その影が壁面に大きくゆらめく。
「願寧様じゃ。どうしよう」
坊主のうち一人が困惑から声を発した。
「ややっ。そこにおるのは誰じゃ」
少々わざとらしい声に、笑い声が起こる。
「ここにおるのは坊主でございます」
恵敬が声をはりあげて言った。
「なんと。坊主がそこで何をしておる」
「先人の書を拝見しておりました」
良俊が続ける。
「なんと勉強熱心な子らじゃ。さぞかし師匠も優れておるに違いない。師匠の名は何という」
ここまでくると、もう坊主らは互いの顔を見合わせ、一同笑顔でこう叫んだ。
「願寧様でございます」
それを聞いて、そばまで来た願寧は満面の笑みを浮かべた。
「よろしい」
現れたのは、良俊や恵敬の師匠の願寧であった。
少ないあかりではあるが、その顔には薄く皺が引かれている。年のころは五十、興福寺では中堅をしめている。老人のようなしわがれ声が特徴で、そのため、実際の歳より老けて見られることが多かった。みな影では「じいさん」と言って親しんでいるが、その名に似合わず当の願寧は体術を得意としている。
「忙しいところ悪いのじゃがな、みな表へ出るんじゃ。荘園の一つに侍が現れよった」
願寧が皆を見渡しながら言った。
「なんと。またでございますか」
一同の中から声がとぶ。
「とにかく出陣じゃ。急げ」
「はい」
みな願寧の声にはじかれるように、暗闇の中から躍り出た。
廊下に出てみると、既に蜂の巣をつついたような騒ぎである。
「恵敬、これは」
良俊は思わず恵敬の顔を見た。
「ああ、戦じゃ」
恵敬はそう言うと、わずかに口角をあげた。
村の東のはずれ、興福寺への大通りへ続く細道に、ひとりの侍があった。
彼は兜を脱ぐと、それを左脇に抱え、両膝を折り地面に顔を近づけた。
細道をつつむ林から、いっせいに鳥が飛び立つ声が聞こえた。
それがつい先ほどのこと。
彼でなければ気づかないほどの、遠くの音であった。
それを不審に思った彼は、仲間を見送った後ひとりになり、東の細道に立った。
地面に耳を押し当てる。
目をつむり、心を鎮める。
全神経を耳に集中させることしばらく――。
彼の耳は馬の足音をとらえた。
その数、約五十。
村に居座る仲間の侍は二十。
彼はそれを確かめると急ぎ村の中心部へと走った。
興福寺に村の男が知らせに入って一時程、良俊と恵敬の身は馬上にあった。
「もうそろそろですね」
馬の頭を並べながら、良俊が恵敬に対し声を荒げる。
「法螺の用意を忘れるでないぞ」
恵敬は良俊の首元を指さし叫んだ。
良俊の首には、大きな法螺貝を結びつけた太い紐がさげられている。
「私が一番に法螺を吹きまする。恵敬は一番槍を狙ってくだされ」
良俊はそう言うと、法螺に手を当てた。
「いいだろう。一番槍を待っておれよ」
恵敬はそう言うと列を抜け、二列に進む隊の先頭近くまで馬を走らせて行った。
「おい、村に異常な数の馬が近づいておる。誰ぞ理由を知らぬか」
兼家は差し出された握り飯を頬張りながら周囲の病人たちを眺め渡した。
みなそれを聞き、周囲の者とひそひそ語り始めた。
「誰ぞ、おらぬのか」
兼家は声を張り上げる。
ひそひそが鳴りやむ。
「わしが説明しよう」
少しの間を置き、そう手をあげたのは村長の重吉である。
周囲の目が、ひたと重吉をとらえる。
兼家の刺すような視線を受けながら、重吉は慎重に話始めた。
「ここが誰の土地か知らずに襲ったのなら、運がなかったという他あるまい」
「なに」
兼家の手が止まった。
「ここは大和国。土地はあらかた興福寺の荘園よ。おぬしらの振る舞いを見て知らせに走った者でもおったんじゃろう。そういう決まりでの。早く逃げた方がよい」
「なんじゃと、この爺」
兼家は口から米粒を飛ばしながら重吉に怒鳴った。
「悪いが匿ってもらうぞ。こやつらが人質じゃ」
兼家は周囲の病人を見渡して言い放った。
「勝てるとお思いか」
「黙れ爺」
兼家が刀に手をかけた時であった。
村の東で法螺が鳴った。
轟、という音が村中に鳴り響いた。
その数五十にもなる、僧兵の騎馬部隊であった。
「では、この奥に洞穴がございます。そこへ、はよう」
重吉はたどたどしい様子で兼家にこたえた。
兼家たち侍集団は、一人一名、村人を人質として携えながら洞穴へ入っていった。
「俺と若丸は講堂の床下に潜ませてもらうぞ。いざという時はこやつを切る」
そう言って、兼家と若丸は光を人質に、床下へと潜っていった。
「誰かおるか」
重吉が兼家たちを見送った矢先、寺の入り口でそう叫ぶ声があった。
「はあい」
重吉は、つとめて明るく返事をした。
寺の入り口まで行ってみると、そこには僧兵の姿があった。
徒歩が三名、馬上が二名の、計五名である。
「これはこれは、興福寺の」
重吉は愛想よく声をかける。
「この寺の者か。無事か。興福寺に使いを出したであろう」
「はい、村長をしております重吉と申します。はじめまして。はて、何かの間違いでございましょう」
「いや、確かに侍に襲われたと知らせがあったが」
「はて。今日は村の者総出で山に入って祭りの準備でございますれば」
「なに」
二人の間に不自然な間が置かれた。
「なるほどそれで。やけに静かなわけじゃ」
年老いた僧兵が馬上から言う。
「念のために中を確かめさせていただいてもよろしいじゃろうか」
首に法螺をさげた一等若い僧兵が言った。
「ええ、問題はございませぬゆえどうぞご自由に」
そう言うと重吉は脇へ寄り、五名に道を開けた。
五名の僧兵たちは重吉を尻目に、境内に建てられている金堂や塔を片端からあらためていった。
その様子は荒々しく、普段からよく訓練されていることを表していた。
重吉は、何事も起きぬようにと祈りながら五名のあとに付き従った。
「あとはどこじゃ」
「奥に講堂がある。そこで最後じゃ」
重吉の目の前で、最も聞きたくない会話が展開されている。
しかし重吉には、ただ無言で従うことしか出来ない。
「おぬし、案内せい」
言われて重吉は、震える手をおさえながら五名の先頭に立った。
僧兵たちが講堂に入った。
その様子は床下にひそむ兼家、若丸、光にも当然伝わっている。
頭上の床板は、重吉と僧兵五名の足で大いにきしみ、講堂内を行きかう彼等の動きを如実に伝えた。
寺の床下は大の大人が膝を着き潜んでいられるくらいの高さである。
そこに兼家は光を羽交い締めにしたまま仰向けになり、同じく仰向けになっている若丸とともに耳をそばだてていた。
「洞穴へは行かぬとみたぞ」
兼家がひそやかに言う。
「大人しく帰るがいい」
若丸が合わせて毒づく。
光は、兼家に羽交い締めにされながら、朔のことを思っていた。
どうか無事で――。
光が、そう一層念じた時であった。
光の足を何かがなでた。
反応して、光は両足を曲げてひっこめた。
兼家の足にも触れたらしい、光を抑えつつ兼家が小声で叫んだ。
「何じゃ今のは」
この声が、いやに響いた。
思わず目をつむり耳をそばだてると、頭上で立ち止まった足音がひとつ。
光は息をのんだ。
「先に集まっていてくだされ。私は厠へ寄って行きますので」
頭上の僧兵のうちの若い声の主が、仲間にそう言っているのが聞こえてくる。
どうやら、ばれてはいないらしい。
安堵のため息をついた、その時であった。
再び何かが、今度は脇腹を横切った。
「何じゃさっきから」
兼家も若丸も、鎧の音をたてたくないので身動きが出来ないでいる。
光は羽交い締めにされながらも首を曲げて、みずからの腹のあたりに目をやった。
すると、「なあ」という鳴き声が響いた。
一同に緊張が走る。
これは先ほどの声とは違い、大いに響いた。
きっと床上にも聞こえたに違いない。
光は目を閉じ、先ほどの若い僧兵がもうどこかへ行ってしまっていることに賭けた。
「なあ」
甲高い鳴き声がなおも続く。
光は、おそるおそる自分の腹のあたりを見た。
そこには一匹の猫が、光の半分仰向けになった腹の上に座っていたのであった。
「なんじゃ、猫じゃ。ただの猫じゃ」
光の声に、兼家と若丸はそろって安堵のため息をついた。
「さきほどの僧兵はもう出たころじゃろう」
兼家はそう言うと、光の首に腕をまわしたまま器用に体勢を起こした。
「ゆくぞ、若丸」
「はい」
命じられて若丸も急いで身をひるがえし兼家の後について表へと出て行く。
長いあいだ床下にもぐっていたせいで、いざ表に出ると、なんでもない陰にあっても周囲がまぶしく感じられる。
三名は、しばらく陰で目をならした後、講堂の広間へと場所を移した。
「僧兵どもは、もう村を出るのでしょうか」
身だしなみを整えながら若丸が兼家に問うた。
「そうであってもらわねば困るがな」
兼家はこたえにならぬ答えを返す。
兼家の腕は、もう光を開放していた。
光は首元をなでながら、二人の傍でまだ目をならしている。
「これで終わりというわけにはいかないでしょう」
今まで首元を押さえつけられていた分ではないが、光は少々強気に言った。
「まあのう。じゃが今日はこれで終わりじゃろう。今度来た時には準備をしておけばよい」
それまで光に封じられていた腕を回しながら兼家がこたえる。
「そうでございますとも。今度こそは逃げ隠れは致しませぬ」
若丸がそう言を重ねた時であった。
広間の手前、厠へ行く廊下から、何かが動く気配がした。
「また猫かのう」
兼家が廊下の方へ視線を向けた時である。
若丸の顔が、ぐいと下方へ沈んだ。
「なんじゃあ」
叫んだ若丸の声が空にむなしく響く。
「おのれ侍ども、隠れておったか」
それは先ほどの若い僧兵の声であった。
落ち着いてよく見ると、僧兵が若丸の首を後ろからしめにかかっている。
みるとその右手には刃物が握られている。
「待て、待つんじゃ」
危険に不慣れな光がその場で大声で叫ぶ。
「おぬしこそ、よく気づかれずにおったものじゃ」
兼家が刀に手を伸ばす。
「おっと、抜くとこれだぞよ」
若い僧兵はためらいもなく握った刃物を若丸の首に押し付けた。
「待てっ」
兼家が叫び、僧兵の注意が兼家に向いた時であった。
「とうっ」
そう小さく行って、光の体が宙に浮いた。
かと思うと光の右手が僧兵の顔面に入っていた。
一瞬の出来事である。
兼家は目をしばたたかせた。
しかし気づくとそこに僧兵の姿はなく、若丸が所在無げに立ちつくしているだけである。
若丸の背後には、全身の跳躍を使って僧兵を殴り倒した光と、その場に崩れ落ちた僧兵がいるのみであった。
若丸が首元に手をやると、血の筋が出来ているのが分かった。
「危ないところであった」
若丸は光に向かい、そう言った。
「いや、とっさのことで……」
光の返事は鈍い。
「おぬしは若丸の命を救ったんじゃ。若丸、礼を言えい」
「すまぬ、礼が先であった。かたじけない」
「いえ……」
その時であった。
表に人の気配がした。
「誰か来る」
兼家が言った。
「これを、どこかに隠さねば」
僧兵を指し光が言った。
気配の主が足音をたて、どんどんと近づいてくるのが分かる。
「皆で隠れましょう。再び床下へ」
若丸がそう言い、みながそれに従った。
僧兵の体も、三名に抱えられ床下へ共にもぐった。
足音の主はまっすぐと広間へ入って来た。
そしてぐるりと広間の中をめぐると、庭に降り、今度は庭をぐるりとひとめぐりし、それから再び屋内にあがり廊下を進んだ時である。
「ううむ……」
僧兵の口から音が漏れた。
あわてて若丸が口をふさぐ。
「起きてしまう」
光が小声で誰へともなく告げた。
その時である。
光の目の前に、深紅の色が勢いよくはじけた。
光の目は赤に染まり何も見えなくなった。
突然のことに、何が何だか分からない。
にわかに光は口の中に鉄の味を感じた。
血――。
次いで思い至ったのは、誰の――。
光の体は小刻みに震えだした。
震える両手で両の目をぬぐい、光は瞼をひらいた。
目の前に、こたえがあった。
「兼家殿――」
光の目の前にいた若丸も、全身に血を浴びていた。
おそるおそる若丸の視線の先をたどった。
そこには、喉笛を搔っ切られた僧兵の姿があった。
呼びかけられた兼家の顔はその喉笛の後ろにあり、無味乾燥な目を僧兵に向けていた。
「ひっ」
光は己の身に起こったことに思い至った。
それから、僧兵の身に起こったことも。
「誰にも言うなよ」
兼家は小声で、それだけ言うと刀をおさめるべく姿勢を整えた。
見ると兼家の鎧には、一滴の血もついていないのであった。
「顔をおがんでおくか」
兼家はそう言い、僧兵の頭巾をはぐと、顔をそちらへまわした。
「おう」
兼家の口角が上がる。
兼家は若丸と光の顔色を窺い、「お前たちもよく見ておくんじゃ」と言い、顔を二人に向けた。
若丸は、あっと出そうになる声を手でおさえた。
光はあまりのことに言葉をなくした。
僧兵は、声からして若いとは思っていたが、そうはいっても、あまりにも若かったのである。
年のころは光や若丸と同じくらいに思われた。
「なんということを……」
光は兼家を、言葉少なに断罪した。
「あのままじゃあ俺達がやられていじゃろう」
「しかし他に手があったやも」
「ないな。こういう場合、ためらいは命取りになる」
「しかし」
光に次の言葉はな無い。
僧兵は死んでしまった。こんな床下で。仲間がそこに沢山いるのに。誰にも知られることなく、己にすら知られることなく、殺されてしまった。目の前の兼家に。こんなに若くして、名も知られずに、こんなところで――。
頭の中でそこまで言葉になり、やっと体の端から体温が徐々に戻ってきたように感じられた。
あれだけ震えていた両手が、今はしんと静まり返っている。
せめてもの、と思い、光は僧兵の半開きの瞳を閉じてやった。
「手厚い供養をいたしましょう」
「坊主だけにか。けっ」
あまりの物言いに光は兼家をねめつける。
何もかも兼家が悪いように思われた。しかし僧兵を気絶させたのは光であった。
光は、血に染まった己のこぶしに、一時前には僧兵のあたたかな頬が触れていたことを思い出していた。
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