みじかい小説#130『蝶と蟻』
新はさきほどから公園の片隅に設置されている砂場の上にひとり胡坐をかいて、両手で砂を持ち上げては落とすという動作を繰り返している。波だつ砂の上に堂々と鎮座し、小さな両の掌でむんずと砂をつかんでは、頭の上まで拳をもちあげ、そこでゆっくりと手を開くのだ。
「新君、楽しいねえ」
耳元で聞こえた声に驚き、新は声のした方を向く。見ると園長先生が、かがんでこちらをじっと見つめている。
「すな」
新は舌足らずにそう言うと、園長先生に砂の入ったこぶしを向けた。園長先生、すかさず両手を新のこぶしの下に広げる。新、おもむろにこぶしを開く。園長先生の手のひらの上に、砂がさらさらと落ちてゆく。
「砂だねえ」
園長せんせいは広げた両手の上にできあがった小さな砂の山をみとめると、視線を新にうつし、にっこりと笑う。
「えんちょうせんせい、あり」
みると、新はもう砂には興味をなくし、木陰に列をつくっている蟻に目をとめている。
「ありだねえ」
園長先生はうれしそうに言う。
新は木陰まで歩いていくと、蟻の列の邪魔にならないような場所にあぐらをかき、興味深げにそれをみつめる。新のじっとみつめる先では、小さな小さな蟻たちが、一心不乱に動いている。
どれくらいの時間が経ったろうか、新の見つめる蟻の行列に、ひとつの変化が見られはじめた。何匹かの蟻が、茶色い小さな破片をかついでゆくのだ。新がみつめる先で、その数はどんどん増えていく。新はなんだろうと思った。そして、その場に立ち上がると、ゆっくりとその源をたどっていった。蟻の行列は、すぐそばの花壇の中にまでつながっていた。
新が藪の中をのぞいてみると、そこには大きな蝶の死骸があった。蟻の行列はそこで止まっていた。蝶は蟻の10倍はあるだろうに、蟻にたかられ、もう体の半分を失っていた。光を失った蝶の目が、とてもおそろしかった。けれど新はどうしても目をそらすことができなかった。蟻たちはそんな新のことなどかまわず、蝶の中を縦横無尽にうごめいている。
新はしばらくそこに立ちつくしていた。
正直なところ、どうしていいか分からなかったのだ。蝶がとても痛くてかわいそうに思えたけれど、その蝶はもう動いていない。蟻さんは食べ物が必要で、蝶はその食べ物だ。新が蝶を助けようか迷っている間にも、蝶は蟻によってばらばらにされてゆく。新はとてもじゃないけど見ていられなかった。
「あら、ありさんがお食事してるねえ」
振り向くと、園長先生が立っていた。
「ありさんがおしょくじしてる」新は園長先生の言葉をくりかえしてみた。そうなんだけれど、そうじゃない感じがした。新の脳裏に、昨日動画で見たばかりの変身ヒーローの姿がよみがえる。ヒーローなら、こういうとき、どうするんだろう。新はまだよく考えることができないので、思い切って園長先生に聞いてみた。
「えんちょうせんせい、どうしよう」
園長先生は大人なので、新の言わんとすることが、すぐに分かった。
「じゃあ、蟻さんのお食事を助けてあげようか。巣の近くまで運んであげるのはどうかな」
それを聞いた途端、新はびっくりして目を見開き、思わず園長先生の大きな目をまじまじと見返した。園長先生が、なぜか急に、とても遠い人のように思えたのだ。
「いい」
新はきっぱりとそう言うと、首を横に振った。そんな新に対して、園長先生は困った笑顔を向ける。
「じゃあ、新君は、どうしたいの」
新には、わからない。
「そうだ、蝶々さんのお墓を作ってあげるっていうのはどうかな」
それを聞いた新は、ついにおそろしくなった。
「えんちょうせんせい、ぼく、きもちわるい」
そう言って、新は園長先生に手をひかれながら、お遊戯室に戻って行った。
「ごめんね」
新の心のなかで振り返った。
藪の中では、蝶の死骸が、いつまでも不気味にうごめいていた。