
よみびとしらず #01 初春 第一章 出会い
一筋の涙がついと頬をぬらした。
場所は京の南西、死体の処理も進まぬ荒れた土地である。
あたりには腐臭が立ち込め、油断すると沼地に足がとられそうな荒れようであった。
季節の頃は春。この頃には珍しく、日向に出て少し動くと汗ばむくらいの陽気である。
「お目覚めですか」
主(あるじ)の目覚めを見やって、牛飼童(うしかいわらわ)が声をかけた。
「よく眠れますねこんなところで」
「こんなところだからだよ」
主である若君がぼそぼそと眠たげに答える。
二人の顔には匂い消しを織り込んだ布が巻かれている。
「そろそろ戻りませんと」
「そうだね、戻ろうか」
若君が言うや、童は牛に鞭を入れ牛車を動かし始めた。
しばらくして朱雀大路に出ると牛車はある角で曲がった。
「あれ、今日の方角は子(ね)だったの」
車内から問われ童はこたえる。
「さようでございます」
「それでいつもの角を避けて曲がったんだね」
「さようで」
|方違え(かたたがえ)である。
「この辺も久々に通るな。ねぇ、少し寄り道をしていかない?」
「いけません。今日ばかりは」
童はぴしゃりと返した。
「はいはい、だよねえ。今日ばかりは大人しく戻ろうか」
「はい」
牛車は一路若君の屋敷へ向かった。
若君は貴族であった。
貴族とはいえ上級というわけではなく、かといって暮らしに困るほどでもなかった。
若君は名を『初春(はつはる)』といった。
「ただいま帰ったよ」
屋敷へ戻り足を洗ってもらいながら、初春は声を張り上げ宅内の者を呼んだ。
それを受けて奥から母と姉と妹と弟がいっせいに姿を現した。
途端ににぎやかになる。
日の高いこの時間、父と兄は出仕中で宅内に姿はない。
「今日ばかりはお早いお帰りで」
母は、にまりとした顔で小言を言う。
「初出仕ですもの、遅刻などしようものなら。ねぇ」
姉が重ねて言う。
「中務省にある陰陽寮、見習い期間を過ぎても才がなければ生涯見習いという厳しき道」
妹がさかしら口に言う。
「兄上、どうかご無事で」
弟はそう言い、妹と共に手を合わせてきた。
周囲からあれこれ言われる中で、初春は下男に着替えをさせながら大きくため息をついた。
しばらく団らんを過ごした後で牛飼童が声をかけてきたので牛車へ向かった。
目指すは宮中陰陽寮である。
こちらでもやはり方違えを行う必要があり、牛車はそれに従った。
しかしある角を曲がり切ったときのことである。
いきなり向かいから別の牛車が現れたかと思うと牛同士が鉢合わせになり相手方の牛車の片輪が浮き大きく斜めに浮き上がってしまったのだった。
そうして牛車からころりと目の前の地面に飛び出てきたのが小柄な姫君であった。
幸い人通りもなく噂になることもなかろうと安堵したが、そうも言っておれぬので、初春は己の乗っている牛車を降り姫君に駆け寄り手を差し伸べた。
はじめて同年の女子と相対した初春であった。
姫君からは春の香がかおり、その顔は花がほころぶような美しさであった。
思わず目をそらして気づいたのが、相手方の牛車から差し出されていたもう一つの手であった。
既に態勢を整え直した牛車から一本の逞(たくま)しい腕がのぞいていたのである。
腕の主は見たところ初春よりずっと大人で二十代なかばあたり、目鼻立ちの整ったすっとした顔つきが印象的だった。
さて二本の手のどちらを取るか迷った末であったのかどうか、姫君は牛飼童に足場を用意させどちらの手を取ることもなく自力で起き上がり元の牛車に乗ってしまった。
二人の手は行き場をなくし空をつかむような形となった。
行きがけにそのような事があったため牛車は少々急ぎ気味に一路宮中を目指したのであった。
牛車の中の初春はすっかり姫の初々しさに当てられ何もかもが見えぬ聞こえぬありさまで、これが初春の初恋となったのであった。
一方、姫君の方では泥まみれになった姿を自邸の者に責められ、連れの男はお前がいながらと更に責められ、初春とは真逆なことに彼らにとっては今日という日は厄日となってしまったのであった。
初出仕は午後の早い時間からで、軽い顔合わせから始まった。
初春が陰陽寮へ入った頃には、既に同期と思わしき顔が二つそろっていた。
一方は体格のいい眉のきりりとした男子、もう一方は気の強そうな毛色の薄い細身の女子であった。
着ているものは見習いのため揃いで、紫の内着が白の外着に透けた狩衣(かりぎぬ)姿に烏帽子(えぼし)である。
「はじめまして」
女子の方から声がかかった。
「はじめまして、藤原初春(ふじわらのはつはる)といいます」
初春はいくぶん緊張しつつ返した。
「俺は源竹丸(みなもとのたけまる)、こっちは平夏宮(たいらのなつみや)。よろしくな」
竹丸という男子は人懐こい笑顔で肩をどしっと叩いてきた。
苦笑いで返した初春であったが、男子の素性には心当たりがあった。
「源というと傍流の満仲殿の?」
「満仲は俺の叔父だ」
どちらにせよ満仲と近しいというのであれば初春の家とは犬猿の仲であった。
それを告げると竹丸はがははと大きな口で笑い「そんなこともある。こちらは仲良く頼むぞ」といったふうであったので、初春はほっと胸をなでおろした。
「私もね」
夏宮が追って重ねた。
そんなやりとりをしていると壮年の男が一人、それよりは若い十代後半とみられるこちらも男が二人、並んで待合の部屋へ入ってきた。
「集ったのはこれだけか」
壮年の男が言う。
「今年は多いほうでございましょう」
連れの若い男の一人がこたえる。
そのまま三人は初春たちの方へ向き直り、壮年の男から名乗りはじめた。
「私は賀茂忠行(かものただゆき)という」
「私は賀茂保憲(かものやすのり)と申す」
「私は安倍晴明(あべのせいめい)と申します」
見た目から、保憲は晴明の兄弟子らしかった。
ついで初春たちも促されるまま名乗りを済ませ、これで陰陽寮に集った六名の顔と名が、各々の頭の中ですべて一致することになった。
それから六名は待合を出て長い廊下を挟んで陰陽寮の端に位置する試験の間へと移動した。
その名の通り、かつてこの試験の間で初春たちは入寮試験を受けたのだったが、この度も何やら試験を行うらしかった。
初春たち三名が床に腰をおろし大人しく待っていると、忠行から声がかかった。
「これから適正試験を行う。どの程度の潜在能力があるのか値の測定を行うが、値は絶対ではなく訓練次第で上下するので安心して臨んでもらいたい。」
忠行の前の机の上には、単純な人型に切られた白い紙が数枚並べられていた。
「まずはこれらの形代(かたしろ)を浮かすことから始めてもらう。術の名は『浮遊(ふゆう)術』という。では竹丸から」
名指しを受けた竹丸は動揺しつつ呼ばれるままに忠行と相対する形で机の前に座った。
「ではまず形代を両側から抱え込むように両の手で椀のかたちを作れ。そうして念ずればこのように…」
忠行の両手の間にあった形代が、忠行の声に合わせてゆらりと浮いた。
新入り三名の口からどよめきの声がもれた。
一番近くで見ていた竹丸の声が最も大きかった。
一呼吸おいてから、竹丸はこれと決めた形代を包むように両の手を椀の形に広げた。
竹丸は目を閉じ、一心に「浮け、浮け…」と念じた。
しかし形代はぴくりとも動かない。
今度は「動け、動け…」と念じた。
しかし、やはり形代はぴくりともしない。
何をどう念じても、竹丸の両の手の内にある形代は動かないのであった。
しまいには竹丸の顔は赤くなり、呼吸は荒くなりし、試験を続けられなくなってしまい、泣く泣く席を立たざるを得なくなってしまった。
次に呼ばれたのは夏宮であった。
夏宮も竹丸と同じように手で型をつくり念じてみるも、何度やっても形代は動かず。
諦めの早い夏宮は竹丸ほど粘ることをせず、とっとと席を後にしたのだった。
最後に呼ばれたのが初春であった。
初春にはこの種の才があったらしい。
なんと一度で成功したのである。
さらに初春は両の手を八の字に動かし、形代を舞わせてみせたのであった。
これには師匠や兄弟子たちも驚きを隠さなかった。
それどころか、いや待て更なる術を試してみるかと、にわかにざわめきだした。
そして予定には無かった『邪見(じゃけん)』を急遽試すことになったのである。
『邪見』とは物の怪の姿を見る術であった。
兄弟子の二人ですら習得に二か月を費やしたものである。
果たして初春は。
忠行は初春に説明を行った。
「まず目に集中せよ。その後、天井の隅に物の怪がいるはずだと思い実際に注視してみることだ。運が良ければ通りがかりの物の怪が見られる」
「運…でございますか」
「さよう初めは運となる。訓練次第で場所を選ばずとも物の怪を見られるようになるがな」
「はぁ」
初春はその不確かな言いように若干の不安を覚えながら言われるがままに目をつくり部屋の一点を注視した。
初春が集中している間は、誰も音をたてなかった。
室内はしんと静まり返り、鳥のさえずりや通りを行きかう人々の音が遠くから妙に薄まって聞こえてくるだけであった。
どれほどの時が経ったろうか、初春が生唾をごくりと飲む音が辺りに響いたように思われたその時、「あっ」という一声が静寂をやぶった。
声の主はもちろん初春であった。
「見えました。大きな体躯(たいく)に全身を覆う鱗と長い尾と、手には玉を持っておりました。図画で見る龍のような、けれどだいぶ小さいような。あれはなんでございましょう」
「おお…」
兄弟子二人がざわめいた。
初春の問いには忠行がこたえた。
「あれは小龍(しょうりゅう)という」
「小龍…」
「はじめて見る物の怪が小龍とは、お主もなかなか運が良い」
初春はどのような顔をしてよいのか分からず、また「はぁ」とだけ返事をし、疲れた目をしばたたかせた。
ますますもって初春を試したくなってきた兄弟子二人であったが、彼らの懇願をしりぞけ忠行の一存で今日はもう予定を切り上げて仕舞いということになった。
忠行は「初春以外の二名には悪いが」と付け加え、兄弟子二人を従えて部屋を後にしたのだった。
部屋に取り残される形となった新入り三名は、師匠らの衣擦(きぬず)れの音が聞こえなくなると一斉に集まり興奮を語り合った。
「いやぁ、俺、自分の分は置いておいて、凄いものを見た気がする」
「私も」
「自分でも驚いてるよ」
初春は自分の両の手をまじまじと広げて見た。
「ねぇ、物の怪が見えるときの目ってどんな感じなの」
夏宮が問う。
「どうって言われても、ただ注視するんだよ。こう、ぐっと目に力を入れるというか……」
「へぇ、特訓してみよ」
「なぁなぁ、形代を浮かせるときのコツがあれば教えて欲しいんだが」
今度は竹丸が問う。
「何も考えてない状態で集中している感じかなぁ」
「何も考えてない?『動け』とか『浮け』とか何も考えないのか?」
「うん、特に何も」
「へえ、俺も特訓だな」
「なんか悪かったね、一人でだいぶ時をくってしまって」
「いいのいいの、俺は気にしてない」
「私も」
「ならよかった。ありがとう」
どこからも帰宅を促す声がなかったので、三名は黄昏時までわいのわいのと揃って術の習得に専念したのだった。
その夜、初春は上機嫌であった。
出仕から戻る父と兄を待つあいだ、いつもならごめんこうむる姉弟たちの世話も買って出たほどであった。
皆が揃った夕餉(ゆうげ)の席で、初春は矢も楯もたまらず自らきり出した。
「今日は陰陽寮で不可思議な体験をいたしました」
「どんな体験?」
妹が問う。
「こう、師匠に言われて目に力をこめて部屋の隅を見ていると小さな龍が現れたんだよ」
「へぇ、そりゃあすごいや」
弟が嬉しそうに言う。
「新入りは私を含めて三名でしたが、これが出来たのは私一人で…」
「三名とは誰か」
初春の言を遮って父が問うた。
たまらず初春はたじろぎ答える。
「源竹丸殿と、平夏宮殿にございます」
「源竹丸とやら、例の満仲とはどのような関係か」
「私も気になって問うてみたのですが、叔父と甥の関係にあるとのことでございました」
「そうか。叔父と甥か……。案外近しいな。初春、お主あまり近づくでないぞ」
「はぁ……」
「なんだその返事は。しゃきっと答えぬかしゃきっと」
横から兄が口を出す。
こうなっては面倒なので初春はしゃきっと返事をしてみせた。
「はっ。失礼いたしました。その件はお任せくだされ」
もはや慇懃無礼の域であるが、いつもの事なので誰も何も言わない。兄だけが物言いたげにいつまでも初春をにらんでいるのだった。
父は名を義政(よしまさ)、兄は義臣(よしおみ)といった。
勝気な義臣は初春の言が止んだのをいいことに父に話題を振った。
「しかし満仲殿もしつこいお方でございますな。但馬の荘園は我らのものぞと言っておるのに聞こうともせん」
「うむ。いよいよとなれば儂が出向くことになるやもしれぬ。その時には義臣、あとは任せたぞ」
「御意」
義臣は初春に見せつけるかのように、しゃきっと答えてみせた。
「どこもかしこも荘園がらみのいざこざで大変でございますな」
初春はもはや自分の出る幕ではなさそうだと思い、一言を残して退席した。
それから三ヶ月は新入りにとって訓練の日々となった。
すべての成績において初春が飛び抜けていたものの、竹丸と夏宮の得意・不得意も徐々に明らかになっていった。
竹丸は気が短いものの粘り強く、術の習得に時間はかかるが一旦身に着ければ忘れる事がなかった。得意術は陰陽師がおろそかにしがちな体術であったため、忠行は大いに褒めた。
夏宮は竹丸とは逆に、気が長いものの粘り強さに欠けていた。そのため根気を要する術を苦手とする一方で、短期間で覚えられる術は片端から習得していった。こちらも陰陽師にとって油断しがちな初歩的な術が多いので、忠行は大いに褒めた。
初春はというと、こちらは特別待遇で、兄弟子二人を充てられ猛特訓を強いられていた。おかげで三ヶ月経つ頃には苦手な術のない、非常に優秀な陰陽師となっていた。
そう、驚くことに、初春は三ヶ月のうちに陰陽師の試験に合格してしまったのであった。
初春たちがそうした訓練に明け暮れていたある日のこと、ある男が忠行を訪ねに訓練場に顔を出した。
その男も忠行と揃いの姿をしていたので、一目で陰陽師であることがわかった。
「今年はどのような顔ぶれかな」
顎をさすりながら男が忠行に問うた。
「いやいやなかなか優秀な者が揃っておりまして。三名おりますが中でも一名、既に陰陽師の試験に合格した者がおります」
忠行は顎髭(あごひげ)をいじりながら満足気にこたえてみせた。
初春は忠行たちの目の前で訓練を行っていたので、自然、男の目にとまる形となった。
「ほう、おもしろい」
男は初春たちには聞こえぬよう小声でつぶやいた。
初春は兄弟子たちに訓練を受けながら、はてどこかで見た顔だと首をかしげていた。
忠行と男が雑談を続けていたその時、初春たちの後ろの方から竹丸の声が響いた。
「おうい、頼明(よりあき)じゃないか!」
驚いて男は声のする方を見やった。
「その声は竹丸様でございますな」
竹丸は訓練を中断して男の方へやって来た。
頼明と呼ばれた男は竹丸を笑顔で迎えた。
「そういえば竹丸様も陰陽寮の生徒でしたな」
「そうとも。皆に紹介させてくれ」
「ええどうぞ」
「皆聞いてくれ。この男は藤原頼明という。うちで雇っている陰陽師だ。よろしくな」
それを聞いて初春はあっと思い出した。
頼明は、初出仕の日、牛車がかち合って地面に落ちた姫君を助けようとした時に見た、あの逞しい腕の主であった。
初春は今度はまじまじと頼明の顔を眺めておいた。
忠行と頼明が雑談をしながら去っていったのを見計らって、初春は竹丸に尋ねてみた。
「君、もしかして妹がいない?」
「ああ、いるぞ。それがどうした」
「私はきっと会っていると思う。こう初々しい感じの子だろう」
「初々しいだけじゃあ分からないぞ」
「とにかくきっと会っているはずなんだ。三ヶ月前に牛車がぶつかり合って姫君がころんと落ちてしまったんだ。それを助けようと手を伸ばしたんだけどその時に顔を見ているんだ。手は取ってもらえなかったけれど」
「へぇ。じゃあ顔を見たらわかるのか」
「そりゃあ、まぁ」
そこへ夏宮が割って入ってきた。
「それじゃあ垣間見をさせてもらったらいいじゃない」
竹丸は驚いてみせたが顔は笑っている。
「垣間見かぁ、いいんじゃないか。ちらっと見るくらいは」
「えっいいの?」
「善は急げだ、兄貴さん方には適当に用事だと言って今日は切り上げてもらおう」
忠行たちがいなくなったのをいいことに兄弟子たちは階段に腰掛け随分と前からくっちゃべっていた。
そんな兄弟子たちの了承を得て、晴れて男子二人は意気揚々と垣間見に出かけたのであった。
夏宮は帰って寝るとのことだった。
初春と竹丸は一台の牛車に相乗りし、竹丸の屋敷に着く手前で降りた。
そこから徒歩で姫君の室を囲う柴垣にこっそりと近づいて行った。
そうして適当な柴の穴を見つけると、そこから中を窺(うかが)ってみたのだった。
「どうだ、うちの妹だが間違いはないか」
「うん、間違いない。あの子だ」
初春は一方で竹丸の問いに答えながら、目では姫君の一挙手一投足を追っていた。
いつまで経っても初春が柴垣から顔を出さないので、竹丸はいっそのことこの二人を会わせてみればいいのではないかとさえ思った。
思うが早いか竹丸はそれを口にしていた。
「どうだ初春、今から愛しの姫君に会いにいかないか」
「えっ、そんな、心の準備が出来ていないのに」
「四の五の言わずにさぁ、さあ!」
押しの強い竹丸である。
しかしこれはいい機会かもしれぬと、初春は竹丸の言葉に甘えることにした。
二人は牛車を屋敷の玄関にまわした。
ところが、である。
そこで鉢合わせたのは頼明であった。
「これは竹丸様、どこへ行かれまする」
顎をさすりながら頼明が問う。
「いや何、友人である初春殿を我が家へ招待しておるところよ」
「それは結構。しかし今は時が悪い。満仲殿が屋敷へおいでじゃ」
満仲は言わずと知れた初春の父の仇敵である。
「竹丸殿、そういう事であれば今日は辞退するよ」
初春は竹丸の背後から頼明にも聞こえるようにそう言った。
「それがよろしいかと」
頼明は何やら含みを持たせたように二人に言葉を返した。
垣間見は成功したものの男子二人の目論見はここでご破算となり、この日はこれでお開きとなった。
「なんだか後味悪くなって悪かったな」
竹丸は残念そうな顔を初春に向けた。
「いいって。垣間見が成功しただけでもよしとしなくては」
初春としては本心からそれで満足していたため、今度は頼明に聞こえないようにこそっと竹丸に返してやり、その場を後にしたのであった。
翌日、初春と竹丸の首尾はどうであったか夏宮が尋ねてきたので、二人は昨日の出来事を事細かに説明してやった。
頼明の登場の場面では夏宮は悔しそうに、まるで我が事のように悔しがった。
しかし夏宮がここで基本的な指摘を挟んだ。
「会えなかったのは残念だけれど、恋文のやりとりが先だよね、普通」
夏宮に言われて二人は、はっとして頷いた。
「初春がしたためた恋文を竹丸が姫君に渡す、まずはそこから始めてみれば?」
「おっしゃる通りで」
頷く二人である。
夏宮に言われ、早速恋文をしたためる初春であったが、なにせ人生初の恋文、何をどう書けばよいのか分からない。
初春は夏宮に相談してみた。
すると夏宮には多少手習いの経験があるとのことで、夏宮を師匠とし恋文をしたためることにした。
そういう訳で夏宮と数日やりとりを重ね、出来上がった恋文を早速竹丸に渡した初春であった。
もう手直しはきかない。
したためた恋文が竹丸の手から姫君の手に渡り、その文字に姫君の目が通る瞬間を思うと、初春は居ても立っても居られないのであった。
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