みじかい小説#122『わかれ』
「ちょっとこっち向いて。鼻についてる」
「ん」
振り向いた花音の顔に手を伸ばし、健はその鼻からクリームをぬぐう。
ふふ、と笑い、花音は食べかけのソフトクリームを健の口元まで差し出す。
健は黙ってそれを口にする。
二人は目を合わせ、笑い合う。
ある晴れた日の午後、とある公園のベンチでのこと。
二人をつつむ何もかもが、二人を祝福しているかのように思えたあの頃――。
ついと、一筋の涙が、花音の頬を伝う。
それを強く手でぬぐうと、花音はベッドがら身を起こし、窓際のカーテンを勢いよく開けた。
空は晴れ、時計の針は既に正午を指している。
よく寝た。
花音は大きく伸びをする。
白い壁にかけられたカレンダーに目をやると、自然と21日に視線が止まる。
毎月のように楽しみにしていた、健とつき合い始めた記念日だ。
先月まで印のしてあったその日付けには、今はもう何も記されていない。
健はもういない――。
花音はもう一つ、大きなあくびをして、ふたたびベッドに身を横たえる。
健はもう、いない――。
花音は静かに、目をつむった。
花音と健は、二カ月前に大きな喧嘩をした。
きっかけは「トイレットペーパーはダブルかシングルか」といった、ささいな事だった。
しかし、どちらからともなく日頃の鬱憤が口をついて出始め、互いにそれが止まらなくなったのだった。
普段は自然に仲直りする二人であったが、この日は違った。
互いに目も合わさず口もきかない、そんな日が一週間続いた。
そしてその日、健は荷物をまとめて花音の部屋から姿を消した。
二人の同棲が始まって2年が過ぎた日のことだった。
不思議なことに、健が出て行くのを、花音は心のどこかで予感していた。
健の荷物が部屋から消えたのを見つけて、花音は心のどこかでほっとしていたのだ。
がらんとした部屋の中で一人立ちつくすも、涙ひとつ、出なかった。
折半してた家賃や光熱費はどうなるんだろう――。
そんな現実的なことばかりが頭に浮かんだ。
でも、これからはもう、二人分の食事を作らなくて済むんだ。好きな時に好きな物を好きなだけ食べられるんだ。
そんなことを現金に喜ぶ自分がいる。
でも二人分の思い出はもう、作れないんだよな……。これからは、なんでも一人。
そう思う自分もいた。
そう、寂しさは多分、あとからじわじわきいてくる。
そんな確信があった。
ベッドでひとり何もせずぼんやりと天井を見上げているところに、一本の電話がかかってきた。
着信を見ると、そこには「健」の名前が。
おそるおそる、電話をとる。
「もしもし、私だけど」
つとめて冷静に、返事をする。
「ああ、俺。今なにしてるかなーと思って」
聞きなれた健の声である。
懐かしさで胸がいっぱいになる。
自然と口角があがる。
「べつに、部屋でごろごろしてた」
「ふうん」
健は続ける。
「そういや俺、彼女ができたから」
花音の笑顔がかたまる。
「へえ。よかったね、おしあわせに」
自分でも若干、唇が震えるのが分かった。
「おう、ありがとな、じゃ」
「じゃ」
花音はそっと、「電話をきる」ボタンの上に親指をスライドさせる。
スマホの画面に映った自分の顔にはまだ、わずかばかりの笑顔がへばりついている。
彼女、かあ……。
感想は、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「へー。彼女、かあ」
今度は声に出して言ってみる。
そんな自分に、なんだか笑えてきた。
私も彼氏、作るかなあ。
でもまだしばらくは、今のままでいいや。
さみしさは、まだ来ない。
多分、一人暮らしを再びはじめることで、じわじわとおそってくるに違いない。
今はそれを、静かに待ちたい。
花音は、ふふ、と笑うと、再び、ひとりベッドの中にもぐっていった。