みじかい小説#186『声』
「声」は、単なる空気の振動である。
人は心筋により生かされている。
そして絶えず呼吸により喉から空気を出し入れしている。
喉を通過する空気は喉にある声帯を震わせる。
それが「声」である。
香奈は今日、久しぶりに恋人の声を聞いた。
遠距離恋愛中の、恋人の貴の声である。
香奈と貴は、ここ3ヶ月ほど二人とも仕事が忙しく、なんとなく互いに連絡をとらないでいた。
つきあって既に5年、当初は連日のように連絡をとりあっていた二人も、今では逆に口をきかないでも日々を過ごせることが、互いの愛情の証であるように感じていた。
香奈は、久々に聞いた貴の声に驚いた。
「あれ、こんな声してたっけ」
香奈はそう思った自分に驚いた。
貴の声は、高く、かすれて聞こえた。
おそらく世間ではそれをハスキーボイスという。
香奈はそんな貴の声が好きであった。
3カ月ぶりの貴の声は、香奈の耳に新鮮に届いた。
声というのは不思議なもので、恋人同士の魂を震わせる効力を持っている。
相手の声を聞くだけで、心地よさを覚えるのだ。
相手に名前を呼ばれれば、その度に愛情を感じるようになっている。
香奈はそんな、初恋の頃のような感動を、ひそかに覚えた。
「声、聴きたかった」
香奈は素直にそう貴に伝えた。
実際、香奈は貴の声を聞いて、ああ自分は貴の声が聴きたかったのだ、貴に名前を呼んでほしかったのだ、と認識した。
「俺も」
貴はこたえた。
香奈にはそれがうれしかった。
ふたりは3カ月ぶりに、1時間を超える近況報告をし合った。
外国映画のように、ことさらに愛を語ることはしなかったけれど、二人は互いの愛情を十分に確かめ合った。
二人にとっては、それで十分であった。
互いの振動を互いの耳に受け、そのこと自体がかけがえのない時間だと、二人は互いに確認し合うのだった。