みじかい小説#178『呼び出しボタン』
「シゲさん、開けますね」
そう言って、看護師の園田舞子は間仕切りをしているカーテンを勢いよく引いた。
舞子の声は、いつも茂の心の琴線を少しだけ揺らす。
「ああ、舞子さん、今日もお疲れさん」
茂はつとめて平静に、紳士的な笑顔を舞子に向ける。
「シゲさん、おかげんいかがですか。体温はかりますね」
そう言って舞子は茂に、体温計を渡す。
いつもの朝の、いつものルーティーンだ。
茂が入院したのは、ちょうど一か月ほど前である。
その日も同じように工場に立っていたら、いきなり頭をがつんと殴られたような痛みがして、その場に倒れてしまったのだった。
茂はすぐに救急車で運ばれ、検査を受けた。
結果、脳の中の細い血管が詰まったとのことだった。
今度の日曜、手術をすることになっている。
舞子は茂のお気に入りであった。
茂の入院当初から、何か心配事はないかと親身になってくれていた。
入院当初は苗字で呼び合っていたのが、今では「舞子さん」「シゲさん」と呼び合う仲になっている。
茂は今年で六十。
舞子に聞いたことはないが、おそらく年齢は三十手前だろう。
三十も歳の違う、娘のような年齢差の女性に、茂は今、恋をしているのだった。
茂は、舞子が「シゲさん」と呼んでくれるのが好きであった。
自分が舞子のことを「舞子さん」と呼ぶのも好きであった。
まるで恋人同士のように、名前で呼び合うのが好きであった。
けれども俺も常識が分からない男ではない。
茂はそんな本心などおくびにも出さずに、紳士的に舞子に接していた。
変なオヤジゴコロを見せて嫌われるのが嫌であったし、何よりどうにかして付き合えるとも思っていなかった。
それでも茂は、舞子のシフトの日には、一日中ご機嫌であった。
同じ部屋の敏夫も、舞子のことが好きで、わざとベッド脇の緊急呼び出しボタンを押したりするのだが、そんな行為はみっともないから、俺は絶対にしないぞと、茂は心に決めていた。
日曜が来た。
つきそいのいない茂に、舞子は「がんばってください」と言った。
茂にとっては、それだけでよかった。
手術は無事、成功した。
茂は順調に回復していった。
茂は手術の前に、心に決めていたことがあった。
それは「この手術が終わったら、舞子さんに告白するのだ」ということだった。
果たして、茂の退院の日になった。
茂は意を決して、舞子を呼び出した。
茂、はじめての、呼び出しボタンである。
「あら、シゲさんどうしたの、今日退院でしょ。どこか具合でも悪いの」
舞子は不思議そうに笑顔を向ける。
「いや、別に。舞子さん、今までありがとうございました。お元気で」
茂はそこまで言うと、ついに涙を流しだした。
「シゲさん、どうしたの。どこか具合でも悪いの」
茂の返事はない。
茂はそのまま舞子に慰められながら、病院を退院した。
「あんた、どうしたんだい、そんなに泣いて」
迎えにきた妻の良子が面倒くさそうに言う。
茂はいよいよ大粒の涙を流しだした。
「シゲさん、じゃあ、お大事に」
「どうもありがとうございました」
二人の女性が、茂の前で言葉を交わす。
茂はいたたまれない気持ちになって、ついに顔をあげることができなかった。