みじかい小説 #147『春の遠出』
四月に入り、おだやかな日が続いている。
気温は日に日に増し、雨が降らないので空気は乾燥し、花粉は舞いに舞っている。
「今日は河川敷まで散歩しましょうか、篠原さん」
言われて圭子は、こくりとうなずく。
「じゃ、カーテン閉めますね」
言われて圭子は、こくりとうなずく。
圭子がこの老人ホームに入ってから、もう二年が過ぎようとしている。
最初は頻繁に通ってくれていた家族も、最近では子供が大きくなったとかでとんと顔を見せてくれない。
それでもホームの職員が、明るくて元気だから寂しくはない。
毎日、体操や音楽の時間が設けられていて、読書をする一人時間もあって、暇はしていない。
ただ、ときおりふっと、外を見てみたくなるときがある。
何も問題がなければ、申請をして数日後に許可がおりるのだが、圭子の場合は足腰が弱い上に少し認知症の症状が出ているためなかなか許可がおりない。
今回は、頭のすっきりしている日を狙って、だめもとで申請したのだった。
だから、まさかオッケーが出るとは思ってもみなかった。
職員同伴で、30分だけ、ということだが、充分だろう。
圭子は喜んだ。
当日、久々の外出ということもあり、圭子はお化粧をした。
春らしく白のシャツにピンクのカーディガンでめかしこみ、髪にはワックスをつけ職員にアップにしてもらった。
「じゃあ篠原さん、出かけますか」
言われて圭子は、こくりと大きくうなずいた。
歩行器を使いながら、ゆっくりゆっくり、一歩一歩、歩を進めてゆく。
職員の山田さんは、辛抱強くかたわらで言葉をかけながら応援してくれる。
「ああ、桜がきれいですよ、篠原さん」
言われて圭子は、足元におとしていた視線を頭上へ向ける。
そこには満開の桜の枝があった。
ああ、きれいだ。
圭子は思わず涙を流した。
見られて、よかった。
圭子の涙は止まらない。
少し困惑した山田さんの提案で、圭子はその場を後にした。
30分しかないのだ。
急がないと。
続いて圭子が向かったのは、ホームの近くの河川敷だった。
足腰の達者で外出自由な涼子ちゃんの言葉通り、河川敷には、まるでふりかけをこぼしたかのように菜の花が群生していた。
ああ、きれいだ。
見られて、よかった。
圭子は再び、涙を流した。
圭子は制限時間ぎりぎりまで、その菜の花を眺めていた。
圭子は次から次へと流れ落ちてくる涙を、忙しそうにふき続けた。
「時間です、篠原さん」
言われて圭子は、こくりとうなずく。
もう涙は流れていない。
「また来ましょうね、篠原さん」
言われて圭子は、大きくこくりとうなずいた。