みじかい小説#187『かえる』
今年も田んぼに水が張られる季節がやってきた。
ヒロは、通っているジムの帰り道に、それを見つけた。
国道ではない細い車道の両脇に、延々と広がる田んぼの中を、ヒロは自転車をこいで家へと帰ってゆく。
休日、ヒロは自転車でジムへ通っている。
思えば、去年の今頃は何をしていたろうか。
朝6時に起き、顔を洗い、朝食を食べ、自動車で会社へ向かう。
ヒロは街の小さな建設事務所で事務員をしている。
午前中の外回りの仕事を終えたら、昼ごはんは近くの定食屋へ入ってカツ丼を食べる。
そうして午後の事務仕事を終えたら、再び自動車で家へと一直線に帰る。
家では両親が夕飯を作って待っていてくれる。
ヒロはそれを食べ、風呂に入ると、自分の部屋へ戻ってネットサーフィンをする。
それから少し英語の勉強をして、疲れたころにベッドに入る。
去年の今頃、ヒロはそんな日々を、変わらず送っていた。
それが、今年の一日の過ごし方は少し違う。
まずヒロは、去年の冬、結婚して実家を出た。
妻のカナとはお見合いで知り合った仲だった。
3カ月ほどつきあいめでたくゴールインしたのだが、第一印象の通り、お互いにおっとりとしており気が合うため、めったに喧嘩もすることなく今に至っている。
カナと暮らすようになり、ヒロは変わった。
今まで一人で寝ていたのに、結婚してから二人で寝るようになると、大人としての自覚が芽生えてきたというか、とにかくカナに感謝したい気持ちでいっぱいになるのだった。
それから、カナと交代で朝食を作る。
ヒロの得意料理は卵焼きで、カナの得意料理は目玉焼きだ。
二人とも料理が好きでよかった。それも、お見合いの時に互いに共通する話題として盛り上がったのだった。
カナは看護師をしており、ヒロより早く家を出る。
家を出るとき、ヒロはカナのおでこにキスをする。カナは、ヒロのほっぺにキスをする。これは二人の儀式である。
そういうふうに、ヒロの一日ははじまる。
それから、午前中の仕事を終えたら、昼御飯は定食屋ではなく、これまたカナと交代で作っている弁当となる。カツ丼よりボリュームは劣るが、これがまたうまい。ヒロにとって昼御飯は、単なるカロリー摂取のためのものではなく、カナを思い出す時間というかけがえのないものとなった。
それから午後の仕事を終えると、ヒロは自動車に乗り、喫茶店で仕事が終わりくつろいでいるカナを拾って帰宅する。
家に帰ると二人で一緒に夕飯を作る。
夕飯が終わったら、二人でゆっくりと映画を一本見る。
それを見終わったら、二人で一緒にベッドに入る。
ヒロの一日は、そんなふうに変わった。
もし今の仕事をしていなかったら。
もしお見合いをしようと思わなかったら。
もしカナと出会わなかったら。
考え得る選択肢のどれが欠けても、今の二人はなかった。
休日、ジムの帰り道、ひとり目の前に広がる田んぼの中を自転車で走っているとき、ヒロはそんなことを考えるのだった。
そんなヒロの耳に、一匹のかえるの声が、ゲロゲロと響いていた。