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みじかい小説#139『三行半』
孫吉は、草むらの中で、思わず「してやったり」とほくそえんだ。
井戸のそばには一人の女が立っている。まだあどけなさの残る、紺絣を着た、二十代の女である。それが、両手を口にあて、どうしてよいか分からないといったふうに、ただ立ちつくしている。
よく見ると、井戸の桶の中には、一匹の白蛇が浮いている。もちろん孫吉が仕込んだのであるが、当の女は当然そのことを知る由もない。
すると女は孫吉の見ている前で、両手でもって白蛇をむんずと掴んだ。かと思うとそれを持ち上げ、ひょいと孫吉の隠れている草むらの方へと放り投げた。蛇はちょうど孫吉の頭の上に落ちてきた。
「うへえ」
「そこにいるのは分かってるんだよ、孫吉さん」
よく通る声で女が叫ぶ。
「ちぇっ、叶わねえなあ千代には」
そう言いながら、孫吉は膝についた土をはたきながら草むらから出てくる。千代は、そんな孫吉を、腕組みをしながら満足げに見下ろしている。
「道場へは行かなくていいのかい」
千代の言う「道場」とは、この町にある唯一の剣道場である。下級藩士の孫吉は、午前中のつとめを終えると、いつも決まって道場で剣をふるう。
「今日は休みだ」
「ふうん」
見上げると太陽は既に南の空高くにあがっており、雲一つない夏の空を、さんさんと照らしている。四方からは蝉の声が響いており、足元に落ちる影は短い。孫吉と千代は、そろって屋敷の縁側に避難した。
「おくには元気?」
千代は、隣に座った孫吉を見上げる。
「ああ、かわいい盛りだ。千代にも見せてやりてえもんだ」
孫吉はくしゃと顔をゆるめる。
孫吉が千代に三行半を告げたのは、ちょうど一年前である。「三行半」とは江戸時代の離縁状のことで、夫から妻へ告げるのが一般的であった。三行半は妻の再婚許可証の役割も兼ねており、千代もつい先月、再婚したばかりである。「おくに」は孫吉と千代の娘で、今年で三歳になる。
「孫吉さん」
「なんだい、お千代」
珍しく神妙な面持ちの千代を見て、孫吉はどきりとする。
「いま、幸せ?」
千代の問いに、孫吉はしばし沈黙した後、おもむろに口を開いた。
「実はな、千代。俺、好きな人がいてな」
「あら、あらあら」
千代は笑顔で顔をいっぱいにして孫吉をまじまじと見つめる。孫吉はそんな千代の視線から逃げるように、顔を茂みの方へ向ける。
「それで?」
「いや、まあ、そんだけだ」
そう言ったきり口ごもってしまった孫吉を見て、千代は思わず噴き出した。
「だめだよ、孫吉さん、弱気になっちゃあ」
千代はからからと笑いながら、孫吉の肩をばしばし叩く。
「まあ何はともかくさ、がんばるんだよ、孫吉さん」
「そうだな、へへ、ありがとな、千代」
それから二人は黙ったきり、いつまでも縁側で蝉の鳴き声を聞いていた。
かつて夫婦だった二人の視線は、今は交わることなく、けれども確かなつながりをもって、各々の未来を見つめていた。
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![艸香 日月(くさか はる)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/6940725/profile_8cd633729d141963279ae045ba4a018f.jpg?width=600&crop=1:1,smart)