
よみびとしらず #04 光 第五章 逡巡
突然の病にたおれた若丸が聖子の元に運び込まれてから三日三晩が経っていた。
聖子は若丸の枕元から片時も離れていない。
「母さん、少し休んだら」
娘の朔はさきほどから母に何度か声をかけている。
「もう少ししたらね」
そのたびに聖子は返事をするが、その実はうわの空である。
部屋の隅には光が陣取っており、何かが起これば水汲みでも薪の補充でも飛び出していく体勢でいる。
この家に若丸をしょって来たのが三日前、それから光は自邸に戻らず居座っている。
若丸の病状は日に日に悪くなっていた。
運び込まれてきたときには止まらなかったあぶら汗が、二日経つうちにすっかり引き、代わりに体の中心から悪い霊気が全身に巡りはじめていた。
どうやら物の怪の類が悪さをしているようだと、それを診ていた聖子には分かった。
聖子は朔を呼びつけ、除霊にとりかかった。
霊力に長けた朔は母の助手をつとめた。
二人のように不思議の術になじみのない光は、二人のやりとりから、若丸の体が不思議の類におかされていることだけは理解していた。
特別豊かというわけではないため、聖子の小屋の内には十分な明かりがなく、昼間は外からの光を頼りにしている。
絶えず湯を沸かしているため室内は湿り気を帯び、外気を遮るつくりであるため蒸気が充満している。
内にたちのぼる蒸気が外から入る光に反射し、その中に悪い気を吸わないよう口元を布で覆っている四名の影が浮かび上がっている。
「ちょっと外の空気を吸ってくる」
先ほどから何やら呪を唱えたきり、とんと動かなくなった聖子の様子を見て、いてもたってもいられなくなった光は、そう言うと湿り気を含んだ重い体を持ち上げた。
「私も」
朔が続く。
二人は蒸気がもうもうと吐き出される小屋からいぶりだされるように外に出た。
太陽は午後を示しており、足元の影は薄い。空を見上げると灰色の雲が何層にもなり太陽の光を遮っていた。遠目には村の畑仕事に精を出している村人が小さな人形のように見て取れた。
「おばさんは大丈夫かのう。寝ておらんではないか」
光は縮こまっていた全身の筋を気持ちよさそうに伸ばす。
「術をかけているうちはああなんじゃ。心配しなくても大丈夫じゃ」
光を見て、朔も手足を上下左右に伸ばす。
「朔の目からみてどうじゃ、若丸殿は助かるんかいの」
「母さんの除霊がうまくいけば、大事ないと思うがのう。相手は物の怪じゃ、人間の術が及ばぬこともある。どう転ぶかはお天道様しか分からぬわ」
「そうか……」
光はそう言うと目の前の小岩に腰をかけた。
ありありと思い出されるのは、やはり良俊のことであった。
兼家が良俊を殺したのではあったが、その殺され方は光から見ても、あまりに無体であった。
良俊の死霊が恨んで出てもおかしくはない。
しかし仮に良俊の死霊だとして、恨む先が違うではないか。良俊を殺したのは兼家である。なぜ関係のない若丸を狙いのだろう。
良俊の死霊だというのは、自分の思い違いであろうか――。
光はそこで考えるのをやめ立ち上がった。
「身の回りのことは任せるんじゃ。朔はおばさんを頼む」
そう言うと光はひとり小屋の裏手にまわり、薪を割り始めた。
今は二人に任せるしか仕方がないのである。
冬の寒空に、薪を割る乾いた音が鳴り響いた。
良俊は目を見開いた。
どうやら長い間ねむっていたらしい。
なにやらふわふわとするが、寝すぎたのだろうか、体が軽い。
おかしなことに、起きてからずっと、頭の中に熱いものがたぎっている。
「おうい、誰か」
呼ぶ声むなしく返事をする者は誰もいない。
着物は興福寺を出た時のままで、相変わらず首から大きな法螺をさげている。
あたりには風の吹きすさぶ音が響いている。
良俊は足元を見た。
足が地面をつかんでいないのである。
おそるおそる遥か下方を覗き込むと、見覚えのある田畑が見えた。
あれは――。
たしか恵敬や他の僧らと共に訪れた村ではなかったか。
良俊は驚いた。
おのれは宙に浮いている――。
良俊はおぼろげに記憶をたどった。
覚えているのは村の西にある寺を訪れたときのこと。寺の講堂に足を踏み入れると怪しげな侍が隠れておった。そのうちの一人、一番若いのを後ろから締めにかかり首に刃物を当てたところまでは覚えておる。それから先の記憶がない。
もしや、おのれは死んだのか――。
そうであれば、いや、そうとしか考えられなかった。
この身は。
良俊は宙に浮いたおのれの腕をまじまじと見つめた。
なぜ――。
それに、先ほどから喉元までこみあげてきているこのものは何なのだ。
いやに熱く、焼けるように痛い。
うまく息ができない。
良俊は、どうしてよいか分からなかったが、次第に、これは恨みなのだと思いだした。
今まで感じたこともないほどの恨みが、おのれの内から湧き上がっているのだと、おのずから思いだした。
しかし今、驚くほど心持ちが平安である。
まるで罪の沼を這いずり回っていたのを誰かに救い上げられ全身に絡みついたものをきれいさっぱり落としてもらったかのように。
そのときである。
「おぬし、新顔じゃな」
良俊の背後から声をかける者があった。
良俊は慌てて振り返った。
まるで気配がない。
見ると良俊の二倍はあろうかという大きな烏天狗が、同じく宙に浮いて良俊を見定めていた。
全身を羽が覆い、しかし人形を成し鎧を身にまとっている。嘴は鋭く、良俊はそれで食いちぎられる気がして全身をこわばらせた。
「何やら変な気がするので来てみれば。相当な恨みを持った人の魂とみえる。よく『こちら側』でそこまで形を保っていられるもんじゃ。いや恐れ入った」
そこまで一気にまくし立てると、烏天狗は驚く良俊の手を握り羽をはためかせた。
「では参る」
烏天狗はそう言ったきり、良俊を伴い姿を消した。
「あの、どこへ」
良俊が烏天狗に向けて言葉を繰り出したとき、二人の姿は既に別の場所にあった。
二人が降り立ったのは京。
京の右京の端にある、とある古びた寺であった。
その寺の名を妙蓮寺という。
良俊を伴いふわりと寺の門前に降り立った烏天狗は、慌てる良俊に目もくれず次を継ぐ。
「ここじゃ。おぬしはここで差配を受ける」
「差配――」
良俊は不安げな表情をたたえたまま、言われるがままに立派な寺の四脚門をくぐった。
死してもなおその霊力を保つ良俊である。降り立った寺が不思議の術に覆われていることはすぐに分かった。
烏天狗に連れられて、良俊は寺の講堂へと足を踏み入れる。
不思議な術のせいであるのか、烏天狗と良俊は、数え切れないほどの角を曲がり講堂の内を進んでゆく。
そうして幾度かの角を曲がり、烏天狗はとある障子の前で止まった。
「ここじゃ」
良俊はいまだ不安気な表情を崩さない。
「入るぞ、狸殿」
そう言うと烏天狗は扉を開き、先に立って中へ進んだ。
すると大きな毛玉が部屋の中央、畳の重なる上に鎮座しているのが目に入った。
「どちらさまかのう」
目の前の毛玉から声がした。
その声は、見た目ほど可愛らしくはなく、いやに野太い。
良俊は烏天狗に促されるまま室内に歩を進め、部屋の中ほどに据えてある座布団の上に腰を下ろした。
周辺には金や黒に光る漆塗りの書棚や手洗い桶などの調度品が所狭しと置かれている。
それらに目を投じていた良俊に、大きな毛玉が振り返る。
「これはこれは、立派な人形を成しておるわい」
そう言うと毛玉は、「儂のことは『狸殿』と呼ぶがいい」と自己紹介をした。
「では狸殿、さっそく聞こう。私は烏天狗から『ここで差配を受ける』と聞きもうした。その差配とはいったい――」
「その通り。おぬしはここで物の怪の長である儂の差配を受ける。というのもお主は今ちゅうぶらりんな形をしておってな、そのままでは人の世にもこの世にもいいことが無いんじゃ」
「どういうことでございましょう」
良俊の必死の問いに、狸は無い顎髭をなでおろす。
「そうじゃのう。もう言うてもよいか。お主も、もう薄々気づいておるじゃろうが、実はもう死んでおる。殺されたのじゃ」
「そうでございましたか。やはり」
良俊はひざ元に目を落とし、大きくため息をついた。
一呼吸置き、狸は次を続ける。
「お主は元々霊力が高い。それを殺されたものじゃから、人一倍強い魂になりおったのよ。殺されたおりに目の前におった人間に憑りついてな、そこから離れられずにおる。その一方で傍におる人間が除霊をしにかかっておる。じゃから中途半端に魂がこちら側に来ておるのよ。それが今のおぬしじゃ。そしておぬしの状態は世の理に反しておる。そういうわけじゃ」
と、狸はとつとつと語った。
「そうでございましたか」
良俊は言葉少なに狸の言葉を受け止めた。
「して、差配とは――」
良俊の目は狸の両目を捉えている。
「ふふ、先を急ぎおるわい。そうじゃのう、その話をしようかの。おぬしの状態はちゅうぶらりんじゃと申した。お主の魂は依然、人間の除霊下にある。それを正邪どちらかに定めねばならぬ。清くあらんとすればそのまま浄化されようし、悪しきさまを貫かんとすれば悪霊となりこの世にとどまる。その行く末を儂が問う。これを『差配』というのじゃ」
狸の言葉に、良俊はただ黙って息を短くし、鼻の孔をひくひくとさせている。
狸はそんな良俊をひしと眼前に捉え、言葉をうやうやしく差し出すかのようにその口を開いた。
「して、おぬしはどうしたい」
問われ、良俊の両目がすわと開いた。
「――」
良俊は、何か言おうと口を開いた。しかし口からは期待したような言葉は何ひとつ出されなかった。
今それを決めろというのか――。
あまりにも急な。
そしてむごい。
世はおのれに何を課すというのか。
良俊は勢い、この世を呪いそうになった。そうしてしまえればどれほど楽であろうと考えた。
しかし良俊は僧であった。
おのれは――。
良俊は目を伏せた。
呼吸を深くし、何やら念じた。
そうして己の最奥に、ふかくふかく身を投じていった。
良俊の身は、仄暗い内の底へと降りていった。
そこは何の音もしない、虚空であった。
良俊は今もって己には何も与えられぬことに絶望した。
良俊は思わず叫んだ。
「私にどうせよと言うのだ。いま、ここで、どうせよと言うのか。あまりにも無体ではないか。あまりにも急ではないか。まだ時間があるはずじゃ。私には時間があるはずじゃ――」
良俊はその場にうずくまった。
そうして肩を震わせ、その場に崩れ落ちた。
良俊はひとりぼっちであった。
良俊はむせび泣いた。
体をまるめて、赤子のように泣いた。
喉元までこみあげてくる嗚咽を、良俊は我慢しなかった。
あとからあとから湧いてくる涙を、今この瞬間、決して我慢などしなかった。
良俊の次の叫びは声にならずに、喉の奥から悲鳴となって宙に消えた。
良俊は泣いた。
良俊は思う存分、時間の許す限り泣くことを己に許した。
良俊の身は、ただ今、誰にも知られず、虚空にあった。
どれほどそうしていただろうか、良俊は力尽きてその場に倒れ込んでいた。
濡れ鼠のようになった己を、いまだ涙顔の良俊はひとり、鼻で笑った。
「恵敬……」
それは、思わず、口をついて出た言葉であった。
良俊は己の言葉に驚いた。
そうして、ああ、己は今、恵敬に会いたいのだと思った。
そう思った瞬間、一陣の春風が良俊の鼻先をくすぐった。
今の良俊には不釣り合いなものの訪れに、良俊は戸惑った。
地獄の底にも風は吹く、か。
良俊がそう心の中でつぶやいた時には、もう何ものも感じることは出来なかった。
「恵敬、恵敬に会いたい。会いたいのう……」
良俊は己の体を仰向けにおこすと、天を仰ぎ、それの叶わぬ己の身を呪った。
そのとき、良俊の内からそれに呼応してかすかに灯るものがあった。
それはついぞ忘れていた、良俊の身を人知れず焦がしていた怨恨の灯であった。
良俊はいま、己の恨みに支配されることに、己を許すことを決意した。
「おのれ――」
先ほどまでむせび泣いていた良俊の口から、自然とそのような言葉がこぼれ出た。
そのことにもう良俊は驚くことはなかった。
「おのれ若丸とやら――許さぬぞ」
いま、良俊の顔は憤怒の形相をたたえ、内省の済んだ身は、一気に現実へと躍り出た。
その沈黙がどれほど続いたであろうか。
良俊の口が開くのを、狸と烏天狗は茶を飲むなどして適当に気を紛らわせながら気長に待っていた。
そこへぽつんと、つぶやく声があった。
「おのれ、若丸とやら――」
それはまごう事無き、良俊の、あの穏やかな良俊の言葉であった。
狸と烏天狗はぎくりとして、それまで遊ばせていた身をこわばらせた。
それほど、物の怪の身にあってでさえ、良俊の言葉は凄みを感じさせたのであった。
「どうやら、決まったようじゃのう」
狸はひとくち茶をすすり襟元を正し、改めて言い放った。
「これより『怨恨の儀』を執り行う」
既に鬼の形相を成した良俊の耳には、もはや何の音も響くことはなかった。
烏天狗はうやうやしく、その場で首を垂れるのであった。
小屋で聖子が必死の除霊を続けているころ、朔はひとり山中にあった。
急がねば――。
苔むす冬の石段を踏みしめる足に、自然と力が入る。
母さんは除霊に忙しい、光は傍で母さんを支えてくれている。
私には私にしか出来ぬことがある――。
朔は、頂にある社へ着くと、すぐさま狐を呼び出しにかかった。
社を中心に不思議の風が四方へと吹き荒れ、光を放つ内から一匹の狐が姿を現す。
「狐殿っ」
息もつかせず朔は狐を覗き込む。
見ると狐は何やら咥えていた。
よく見るとそれは団子であった。
「なんじゃなんじゃ、乱暴な呼び出しじゃのう」
狐は恥ずかし気に、咥えていた団子の残りを勢い口に押し込む。
気づかぬうちに術に力がこもっていたらしい、朔は慌てて手短に詫びを入れた。
まだ口元をもぐもぐさせている狐は、落ち着くよう朔に言い渡した。
そうして口の中にあるものを全部飲み込んでから、改めて朔に問いかけた。
「どうしたんじゃ、顔色が悪いではないか」
狐は怪訝そうな顔をして下から朔を覗き込む。
「実は狐殿、相談があって参りました。いま母が人の魂の除霊を試みておるのですが、どうにも手の打ちようがなく悪化するばかりでございます。どうすればよいかお聞きしたい」
朔はひといきにそう言うと、目をつむって息を整える。
「なるほど、そういうことか。その霊、霊力の高いおぬしから見ても手に負えぬとみた。こりゃあ難儀じゃのう。しかし、ことは簡単じゃ。人の魂が悪さをしておるのなら、その霊の気の済むようにしてやるのが一番じゃ。そうすれば霊はおのずと昇華するわい」
狐は小枝を拾い上げると、歯につまった団子をとるためにそれを口の中にいれていじりだした。
「さようでございますか」
朔はしばし、言葉につまった。
「朔、どうしたおぬしらしくもない。なんぞ悩んでおるのなら聞いてやるがの」
「狐殿。実はその魂が望んでおるのは知人の命なのでございます」
「なるほど。そりゃあ頭を抱えるわけじゃ」
「どうすれば」
「そりゃあ知らねえな。おいらの領分じゃねえ」
狐はぴしゃりと言った。
朔はつぐ言葉もなく、その場に腰をおろし、どこか一点を見つめるように宙に目をやった。
その時であった。
あたりに轟音がとどろいた。
木々は小刻みに揺れ、かろうじてつないでいた枯葉が、はらはらと落ちてきて足元に積もる。
「なんじゃあ」
狐と朔は音のした方へ向き直り、木々のすきま、はるか上空に目をやった。
「なんじゃ――あれは」
朔の口からそんな言葉がついて出た。
「あれは――」
狐が小さく黒い目をまんまるにして見定める。
上空、音のした方に、激しく立ち上る墨色をした煙があった。
「朔――お母上殿には気の毒じゃが、その魂とやら、いよいよ悪霊になりおったようじゃ」
狐の言葉に朔の頭は素早く反応した。
「狐殿、ではまた」
朔ははじかれるようにしてその場をあとにした。
小屋にいる母と光の身が、危ぶまれた。
斜面に積もった枯葉の上を、朔の体が駆け抜けた。
葉は乾いた音を気ぜわしくたて、四方へ散る。
急がねば――。
全身をまりのように弾ませながら、朔の頭は素早く動いた。
狐殿は霊を鎮めるためには望をかなえてやるのがいいと言っていた。
あの僧の魂は「若丸を同じ目に合わせる」と言っていた。その後、若丸とやらの容態が悪化したため憑りついたものとみられるが。
はたして、いざという時には母と光の身を先に考えねばならぬ。
そうなれば、若丸には死んでもらわねばならぬ――。
体にあたる枝の先が、小刻みにはじかれ後ろへと消える。
そうならねばよいがの。
朔は先を急ぐ。
体とは裏腹に、朔の頭はすうっと冴えわたっていくのであった。
「母さん、光っ」
朔は勢いよく小屋の戸を開けた。
小屋からは相変わらず、もうもうと白い煙が吐き出されている。
朔はその蒸気のなかに身をおどらせた。
「その声、朔かっ」
「光、無事か」
二人は互いの声のする方へ手探りで進みかち合った。
すぐそばにあっても、互いの顔の間には煙が満ちている。
「さきほどの音は、この小屋からか」
「そうじゃ、勢いでおばさんが吹っ飛ばされたぞ」
光の声はどこか頼もしく聞こえた。
朔は急いで母に駆け寄った。
聖子は相変わらず若丸の枕元で呪を唱えている。
「大丈夫、母さん」
「大丈夫じゃ。朔、霊力が増した。憑りついていた霊が、いよいよ本腰を入れたようじゃ。ここ数日が正念場じゃ」
見ると若丸の体は、わずかばかり宙に浮き、それを墨色の煙がとぐろを巻くようにしてとらえている。
「なんと禍々しい……」
朔と光が小屋を出た時はこんなものはなかった。
おそらく先ほどの音が関係しているに違いなかった。
母を助けねば――。
それは霊力のある朔が見てもどうなるか分からなかったが、朔は腹をくくるしかないのであった。
そこへ、光の言葉が落ちてきた。
「こんなんで死んだらいよいよ本当の阿呆じゃ」
朔が振り返ると、光が二人の後ろに棒立ちになり、血の気のない顔で若丸の苦し気な顔を見下している。
光の頬を涙が伝った。
朔はそれを見て見ぬふりをした。
「なんでこんなことに」
光の声は白い煙にちぎれた。
煙で顔が見えないのが幸いして、光の顔を伝う涙はいま、誰にも見えない。
「光がそこまで気に病むことはない」
朔は後ろを振り返らずにその場でうつむき、そうつぶやいた。
そこへ野太い声が続いた。
「そうじゃそうじゃ、若丸などほおっておけばよい」
声のする方へ一同、視線を向けた。
小屋の中には白い煙が満ちている。
よく見ると、壮年の男のものと思われる立派な太い足がにょきっと白い煙の下から伸びていた。
「その声は、兼家殿か」
光が宙に叫ぶ。
「いかにも」
その声はいつにもまして意地が悪く聞こえる。
「ご苦労なことだ。泣きながら看病すればあの僧兵が生き返ったり、若丸が元気になったりするってか。阿呆だな、お前」
兼家の物言いに、その場が一気にしずまった。
音のないなか、白い煙だけがもうもうと小屋の屋根の裏をなでて寒い外の世界に流れだしている。
朔はどこか、頭の隅のほうで、兼家とやらの言い分も的を射ていると思っていた。
朔から見ても、光は若丸とやらに肩入れしすぎている。
いざとなれば若丸の命は私が――。
「二人とも、出て行ってくれ」
涙声の光が珍しく怒鳴った。
それに聖子が続いた。
「さあさ、出た出た」
言われるがまま、仕方なく朔と兼家は小屋をいぶされるように出た。
「私の家なんじゃがな」
朔はひとこと、つぶやいてその場をあとにし山へ入っていった。
「けっ、くそがきが」
兼家はそれだけ言い残すと、朔とは反対側の村の中央へ向かう道に出て行った。
あとには寒空の下、白い煙をはきだす小さな小屋だけが心細げに残された。
聖子の小屋から追い出された兼家は、行く当てもなくぶらぶらと河原を歩いていた。
冬の寒空のした、見るからに冷たい水が勢いよく足元を流れていく。
すると川が大きく曲がった先で、寺の病人たち数人が水で体を清めているのに出くわした。
兼家は、おもしろくない連中に出くわしたものだと舌を打った。
しかしそんな兼家に病人たちの一人から声がかかった。
「おうい、おさむらいさま、若い兄さんの容態は大丈夫かえ」
兼家はぎょっとした。
「噂が早いな」
「小さな村じゃからな」
言って病人の一人は、濡れた手ぬぐいを裸になった上半身にぴしゃりと打ち付けてみせる。
それを見て他の病人たちがけらけらと笑っている。
兼家はそんな病人たちの様子を見ていると、なぜだか妙に腹立たしく感じられてきた。
兼家は再び大きく舌を打った。
「病人が病人の心配をしてどうする」
その兼家の言葉に、病人たちは違いないとからから笑った。
「今じゃ仲間さね」
兼家はそれを聞いていよいよ腹が立った。
兼家は三度目の大きな舌打ちののち、何も言わずにその場をあとにした。
山へ入った朔も、兼家と同じく行く当てもなくぶらぶらとしていた。
朔は先ほどから同じことを考えていた。
いよいよ悪霊となった霊である。
母と光に大事あれば、自分が悪霊の望みをかなえてやらねばならぬ。
悪霊の望み――それは他でもない若丸の死。
いざとなれば本当に、私にそんなことが出来るのだろうか。
朔はその先を考えられずに、さきほどから同じ場所をぐるぐると巡っていた。
そんな朔を離れた場所からじっと見つめる目があった。
その目の主は、大きな一匹の鹿であった。
鹿はいま、誰に知られることなく、朔をとらえているのであった。
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