みじかい小説 #145『満開の桜の下で』
良子は今日の午前中は半休をとって、散歩がてら近くの桜の土手まで足を伸ばした。
四月三日、桜の花はみごと満開である。
天気は快晴、雲一つない、こちらも見事な晴天である。
この桜の土手は歴史が長く、江戸時代から桜の名所として知られていたそう。
そんな歴史の書いてある看板が所々に立っているので、良子は興味深げにのぞきながらてくてくと土手を歩いていく。
先ほどコンビニで買ったおにぎり2個とお茶が、朝食抜きの良子にアピールをしている。
仕方がないなあ。
良子は花見もそこそこに、備え付けのベンチに腰かけると、ひとり花見に団子としゃれこんだ。
思えば今年はもう五十になる。
人生100年時代、まさにその半ばにあるのだ。
早いもんだ。
この間まで学生だったのに。
良子は目の前を通り過ぎる学生とおぼしき若者たちを目にしながら思う。
でも、いい具合に歳をとってこれたかな。
良子は満足げに、皺の多くなった自分の両手を軽くもむ。
さあ、歩こう。
良子は再び歩き始めた。
2mほどしかない桜の木は、手すりを超えて枝を川辺まで伸ばし、さながら桜のカーテンのように良子をつつんでいる。
良子は頭上に広がる桜の花々の姿に舌を巻きながら、上を向いて歩いていく。
ときどき、幼稚園か保育園、はたまた小学生とおぼしき子供が、両親や祖父母に手をひかれ歩いているのが目に留まる。
私にもああいう時期があったのだ。
ふふ。
良子は子供を見るたび、そんなふうに思って、どこか嬉しくなる。
両親もだいぶ歳をとった。
一緒に見る桜はあと何回あるだろう。
そう思うと、これも老人が一人、また二人連れで歩いているのが目に留まる。
みな、思い思いに今日の桜を楽しんでいる。
本当に、それぞれの人生のうちで、今日しか味わえない桜を、思い思いに楽しんでいるのだ。
桜の花を見ていると、泣きたくなるほど切なくなるのはなぜだろう。
枝々に光の粒のように見える桜の花びらの一枚一枚が、まるでひとつひとつの死者の魂のように思えるからか。
それほどに、今日の桜は見事に咲き誇っている。
良子はスマホを手に取ると、足元の桜の木のこぶからひっそりと伸びている花弁の束に焦点を合わせた。
上ばかり見ていると見逃してしまう、こんなささやかな花見もある。
良子はそっと、シャッターボタンを押す。
しばらく歩いていると、一眼レフだろうか、首から大きなカメラをさげている60歳ほどの女性とかちあった。
「大きなカメラですね」
と声をかけたくなるのをこらえて、良子は視線はカメラのまま、何食わぬ顔で通り過ぎる。
大きなカメラを一人ぶらさげ歩いてゆく彼女の背中は、どこか頼もしく見えた。
ああいう歳の取り方をしたいものだ。
良子は見送りながらひとりごちる。
さて、桜の土手も端まで来た。
ここからは折り返しとなる。
時間で30分。
これから来た道を帰ってゆくのだから、さらに30分かかる。
合計1時間、いい運動だ。
良子は時計を確認すると、きびすを返し、再び頭上の桜を見上げながら、ゆっくりと桜の木々の中へと入っていった。