みじかい小説#174『猫』
それは5月の雨の日のことだった。
正樹はアパートの裏で、一匹の子猫が段ボールに入れられ捨てられているのを見つけた。
正樹の仕事はシェフである。
衛生面の点から調理場に動物はご法度で、家にいる動物の毛が入ってはいけないからと、ペットを飼うのも禁止されているくらいだ。
そんなわけで、正樹は子猫を見た瞬間、「汚いなあ」と思った。
実際、その子猫は汚かった。
毛は泥でだまになり、目には目やにが浮かび、鼻元は怪我をしているのだろうか、かさぶたが出来ており、全体的に薄汚れたモップのようだった。
子猫は、正樹を視界にとらえて、小さくニャーと鳴いた。
正樹はそれをじっと見た。
子猫も正樹をじっと見た。
二つの命の間にあるのは、なまあたたかい5月の雨だった。
いけない、仕事に遅れる。
正樹はスマホを取り出し時間を確認する。
スマホの液晶画面の薄い明かりが、正樹の手元で光る。
それを見てか、子猫はまたひとこえ、ニャーと鳴いた。
「ごめんな、餌とか持ってないんだ」
そんな言葉が口をついて出ていた。
そんなこと思ってもいないのに、正樹はよく「ごめん」と口にする。
悪い癖だとは思っていても、自己肯定感が低いのだろう、正樹はすぐに頭を下げる。
正樹は雨の中、子猫を残し、仕事へ向かった。
その背中に、小さくニャーという声が聞こえた。
正樹は独身であった。
彼女はいない。
小さなこの町でもう5年近くも毎日同じ料理を作り続けている。
趣味はゲームと音楽鑑賞。
たまに自分で下手なギターを弾く。
その他にこれといって特徴と呼べるものはない。
正樹は自分のことを、個性の無い人間だと思っている。
そんな自分が、小さな命を見つけたのだ。
雨の中、自分の小さな命だけを頼りに、あの子猫は今も鳴いているのだろうか。
自分の単調な日常の中に突如として現れた小さな命。
今も鳴いているであろう、あの子猫。
正樹の頭に、じっと見つめた子猫の二つの目が、ありありと思い出される。
飼うことはできないが、せめて腹を満たしてやろう。
正樹は調理場の隅で、食材の切れ端を集め、ささやかな食事を用意してやった。
夜も更けたころ、正樹は意気揚々と帰ってきた。
この食事であの猫は一日生き延びる。
それは正樹にとって、くすぐったい感情であった。
早くこの手であの猫に食事を与えてやりたいと思った。
しかし。
アパートの裏まで行ってみると、子猫の入った段ボールは消えていた。
正樹はしばらくそこいらじゅうを探した。
耳をすませて小さな鳴き声も聞き漏らさないよう気を付けた。
だが子猫の入った段ボールは、ついに見つからなかった。
心優しい他の誰かに拾われたのか、それとも残酷な手によって処分されてしまったのか。
それはもう分からない。
正樹は雨の中、自分の手から滑り落ちた何かを、ずっと考えていた。