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90年W杯。マラドーナ。

フットボール界のレジェンド、ディエゴ・マラドーナが天に召されました。ここ数日のTVで何度も86年W杯の「神の手ゴール」「5人抜きゴール」の映像が繰り返し流れています。

「マラドーナの大会」。
86年W杯を語るとき必ず付けられるフレーズです。たしかに素人が観ていてテクニカルな解説も必要ない実にわかりやすい〈何だこいつ〉感に溢れた26歳のマラドーナでした。

しかし今も私の心に残る、痺れるくらいにカッコいいマラドーナは4年後90年W杯イタリア大会にあります。

その90年W杯の前に…

当時マラドーナが所属していたクラブはイタリアリーグ・セリエAのナポリ。今では凋落著しいセリエAですが、当時はミラン、インテル、ユヴェントスの3強がしのぎを削り、世界中からスター選手が集まる最高峰リーグでした。
マラドーナがスペインのバルセロナから移籍したのはイタリア南部の弱小田舎クラブ・ナポリでした。当時既に世界トップクラスの選手だったマラドーナの加入にナポリの街は蜂の巣を突く大騒ぎになった映像を当時見た記憶があります。間違ってもそんな選手が移籍してくるようなクラブでは絶対になかったから。そして86年W杯で「世界トップクラスの1人」から「神の子」となってナポリに凱旋したマラドーナを擁して弱小ナポリはセリエAで初優勝を成し遂げてしまいます。マラドーナは母国アルゼンチンから遠く離れたナポリでも神になり王様になりました。

でもイタリア全土で見ればマラドーナは嫌われていたと思います。サッカーという枠を外してみて、そもそもナポリが位置するイタリア南部は少し大袈裟に表現するなら「被差別部落」みたいな扱いでした。今なら大問題になるだろうと思われるチャントが大声でスタジアム中で歌われていたという記事をサッカーマガジンか、N umberかで読んだ記憶があります。
いわく、
「せめて風呂に入ってからスタジアムに来い」「ウンコ臭いぞ、ケツを拭いたのか?」的な。
酷くないですか?苦笑

そんな中で田舎成金みたいな服装でスタジアムにやってくるマラドーナを、お洒落なミラノ人あたりがどう見ていたのか察しがつきます。
そしてピッチでは圧倒的にレベルが違うから尚更に「ナポリのくせに生意気だぞ」となったことでしょう。信者からは崇められ、他からは迫害される…本当に神の子かも知れません。

そんな中で開催されたのが90年W杯イタリア大会でした。
準々決勝、アルゼンチンの対戦相手は…
何と開催国イタリア。
しかも開催スタジアムは…
何とナポリ。

今でもTV越しから伝わるあの渾沌とした空気感は忘れられません。
基本は当然、母国イタリアに対するもの凄い声援。しかしマラドーナがボールを持った時だけ音が変わります。何せここはナポリ。マラドーナに対する声援…と思いきや、そういう感じでもない。何とも複雑な空気。指笛とブーイング。なんだか上手く説明できない空気。
今考えれば、あの大観衆の中に、貧乏暮らしに喘ぐナポリ市民のどれだけがチケットを手にできていたのか。

90年のマラドーナを思うとき浮かんでくるのは、実は今も何も変わっていない世界のあらゆる不条理。そのピッチにマラドーナは少し挑発するような、からかうような、煽るような、そんなプレーで君臨しました。
「どうよ?悔しいかい?」みたいな。

マラドーナは言いました。
『この試合が終わり、そして残りの364日、
これまでと同じくイタリアはナポリを見下すのだ』

この試合が、選手としてのスキルとかコンディションなどとは別の意味でマラドーナの頂点だったように思います。

決勝では「我がイタリア」を負かしたマラドーナに対して、これ以上ないほどのブーイングがスタジアムを包みました。
負けて泣きじゃくる姿を残して大会が終わり、立て続けに薬物問題、体調不良、対人トラブル等が噴出する晩年に向かっていきます。

『プレッシャーなんかピッチやゴール前にはない。あるのは、いつ貧困に陥いるのかという不安。それとアルゼンチンの代表であることのプレッシャー。それだけだ』
若き日のマラドーナの発言です。

どことなくいつも、
言ってる割に大したことない者たちに圧倒的な才能を見せつけて、憎悪を煽るかのような姿がマラドーナの本質だったのではないでしょうか。

マラドーナの体には、カストロとゲバラのタトゥーが刻まれていたといいます。
彼自身もまた、サッカー人生も、人生も、反体制であったと思います。

彼の魂と共に、いまこんなチャントを歌うのはどうでしょうか。

たとえ風呂に入っていなかろうが、
ケツに糞が付いていようが、
ダサい田舎者だろうが、
オマエのサッカーの数百倍、
オレのサッカーは人々を魅了する。


ディエゴ。安らかに。

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