【ショート・ショート】ある朝 ~一夜明けて~
「やっと終わったな」
「ええ」
昨日、一人娘の由紀を送り出した。まだ半日しか経っていないのに、家の中が随分広くなったような気がする。
「お茶でも入れましょうか」
「ああ、頼む」
卓袱台に両手をつきながら、腰を降ろした。その時になって新聞がないことに気づいたが、立ち上がって取りに行く気にはなれなかった。
所在なく見回すと、食器棚の横の壁の、煤けて消え掛かった汚れが目に入った。あれは、由紀が幼稚園の時クレヨンでいたずらした跡だ。まだ新築したばかりだったから、家内が苦心惨憺して消そうとしたが、結局落ちなかった。
黒い大黒柱。あの柱にぶつかって、額を数針も縫う怪我したこともあった。確か小学一年生の時ことだ。由紀は平気な顔で遊んでいたが、妻は血だらけの顔を見て慌てふためいた。妻のあげた声に驚いて、由紀が泣き出したものだ。傷がほとんど残らなかったのは幸いだった。
首を少し巡らすだけでも、至る所にそんな思い出が染み込んでいる。不思議と由紀が小さい頃のことばっかりだ。
――お転婆だったな。ちゃんと妻として母としてやっていけるのだろうか。
少し気に掛かる。
「大丈夫ですよ」
妻はお茶を置きながら、私の心を見透かしたかのように言う。
「ん。ああ、そうだな」
はす向かいに座って、妻は私の視線を辿る。
由紀は就職すると直ぐに、近くにアパートを借りて一人暮らしを始めた。家に帰ってくるのは月に一回。それも決まって月末だった。
「今月、ピンチなんだぁ」
「ピンチ、ピンチって、毎度のことじゃないか」
「いいじゃ、ないの」
その日は三人で食事を取った。特にこれといって話すことなどない私は、母と娘の会話を肴に、黙々と晩酌をするだけだった。たまに由紀が注いでくれた。
結婚が決まって、由紀は家に戻ってきた。妻がこの家から嫁がせたいと願ったからだ。
「直ぐ近くだから、ちょいちょい遊びに来るわよ」
そう笑っていた、由紀。
――でも今度帰って来る時は、前とは違う顔になっているんだろうな。
「きれいな花嫁姿だったな」
「ええ、とっても」
話が途切れると、水を打ったみたいな静寂が訪れる。私は茶を啜る。妻はまだ遠くを見ている。
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