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【ショート・ショート】雨だれ
「あら、嫌だ!」
梅雨になる前にと思い立ってリフォームした台所。私が上げた不満の声に、夫が顔を覗かせた。
「どうした?」
「庇が短いの。ガラスに汚れが付きやすいわ」
リフォームに当たっては、事前に十分にショールームで実際の商品を見て、流しの高さや色や形、この際ついでにと新しくする出窓もと細かにチェックした。工務店との打ち合わせも細部に至るまで念入りに行った……つもりだった。だが出窓の庇の長さとガラスの位置との関係を見落としていた。これから雨の日が多くなる季節、先が思いやられる。
「仕方ないよ。そこまでは無理だよ」
夫が慰める。
「それは、そうだけど」
ここは私にとって職場であり聖域でもある。他の部分は満足しているだけに、少し味噌を付けてしまったのが悔しい。
土曜日の午後。二人の子ども達を塾に送り出して、私はのんびりと夕飯の準備に取り掛かる。
――やっぱり降ってきたわね。傘を持たせて正解だわ。
よしっ。窓を叩き始めた雨を見ながら、私は小さく拳を握る。天気予報では曇りだったけれど、私は自分の勘を信じた。二人は不満げだったが、有無を言わせなかった。
ガラスの表面に張り付いた雨粒。一つ、二つ。やがて隣同士がくっつき、瓢箪形になっては、引き寄せられて再び丸くなる。それらを繰り返して大きくなった雨粒は、ついには重さに耐えかねて、周りの滴をも巻き込んで、幾本かの筋を作って流れ落ちる。近づいたり、離れたり、くっついたり、別れたり。それらの変化に富んだ動きは見ていて飽きることがない。
――子供の頃は、よくその動きを予想して遊んだわ。
私はいつしかガラスの外側に描かれた雨筋に指を伸ばしていた。
そういえば、あの時も雨だった。
私はプロポーズされた。相手は、当時グループでよく遊びに行っていた、その中の一人。でも私が思いを寄せていた男性は他にいた。
母に相談したら「女は、想われている人と結ばれた方が幸せになれるわよ」と言う。
――性格的には、とてもいい人だと思う。だけど……。
「結婚なんて思い切りよ。相手を好きになるのは、後からいくらでもできるわ」
乱暴な意見だけど、母の目は優しい。
「それに迷っているってことは、多少ともその気があるからでしょう」
母の後押しにも、まだ私はその一歩を踏み出す勇気が出ない。
無論その人を嫌いなわけではない。むしろ気の置けない友人の一人だと思う。仕事で失敗して落ち込んだり、友達と喧嘩して塞いだりした時など、相談したり愚痴を聞いてもらったこともある。それだけに恋愛対象とか結婚相手としては考えたこともなかった。
――どうしたらいいのかしら。
その人は深夜の電話にもかかわらす、私が落ち着くまで付き合ってくれた。うん、うん。穏やかな声で相槌を打つ、その優しい眼差しが受話器越しに目に浮かぶ。
――あら、いやだわ。
今まで余り意識していなかった人が、私の中で段々大きくなってくる。
――どうしよう。
雨脚が少し強くなった。ガラス窓に流れる二本の筋。
――これが一つになったらプロポーズを受ける。離れたままなら……。
「おーい、何か焦げ臭いぞ」
夫の声で我に返ると、鍋の底でいくつかのミートボールが焦げ付いてしまっている。いい感じでとろみがついて出来上がり間近だったのに。
あちゃー。ここ数日、天候が不順で寒さがぶり返したせいで、私は風邪を引いてしまった。臭いに気づかなかったのは、この鼻詰まりのせいだ。
フライ返しでつついてみても、それらはくっついて離れない。これはだめだ。私は笑う。
「どうしたんだ?」
夫は訝しげな声を上げる。
「ううん、何でもない」
たぶん夫には分からないだろうなと、また笑う。
「何だ? 変なヤツだな」
首を傾げながら踵を返す夫。その背中を見ながら、私は母の助言は正しかったと思う。
多分……。
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