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【ショート・ショート】できちゃった婚

 『できちゃった婚』。または、『おめでた婚』、『授かり婚』。
 呼び方は時代によって変わる。かつては『婚前妊娠』と呼ばれマイナスのイメージが主であったが、今どきのカップルではそんなに珍しいことでもないのかも知れない。英語(米俗)では、shotgun weddingまたはshotgun marriageと言われることもあるそうで、妊娠した娘の父親が相手の男に散弾銃を突きつけて婚約を迫ったということに由来するらしい。

 ともあれ、砂村孝の場合は……。


「今夜はどうする?」
 砂村孝は、待ち合わせ場所に行くといつも最初に発する言葉、「やあ」と同じ調子で尋ねた。
 宮内晴美と付き合い始めて五年目。知り合った頃の熱さはうになく、月に何度か会って食事をする、そんな関係が今も続いていた。たまに気が向くとホテルで体を重ねることもある。それさえも付き合い始めの頃の、荒々しくむさぼるようなメインディッシュではなくて、あってもなくても構わないぐらいのデザート的な感覚となっている。
「ううん、今日はちょっと」
「そう。分かった」
 会話が途切れたまま特に気にすることもなく、孝は食事を続けていた。孝がふっと顔を上げると、晴美はフォークとナイフを持ったまま皿に目を落としている。手が止まっていた。
「苦手なものか、嫌いな物があった?」
「ううん」
「具合でも悪いのか?」
「ううん」
 晴美は質問の度に小さく首を横に振った。

 孝は今様のチャラチャラした女は苦手だった。少し暗い印象はあるが、晴美のような物静かで一歩引いたような女性が好みだった。だが今の孝には、もう晴美に対して然程さほど執着はない。
 自分からはこの関係を解消する積もりはないが、もし晴美の方から別れを切り出してきたら、潮時だろうなと二つ返事で受け入れるだろう。自分でも卑怯だと思う。だが晴美と次の段階に進むことは考えてもいなかった。晴美もそういう関係を了承しているものだと思っていた。

「妊娠したの」
「えっ」
 孝の手が止まった。孝はその言葉の意味するところを咄嗟とっさに理解できなくて、聞き返した。
「えっ、今、何ていったの?」
「子供が、できたのよ」
 晴美は一語一語噛み締めるように発音した。ごくり。孝は咀嚼そしゃく途中のかたまりを飲み込んだ。が、途中でのどつかえてしまい、慌てて胸を叩いて、やっとのことで胃の腑に落とした。そして口をいて出た言葉が、「本当に俺の子か?」だった。晴美はきっとにらんだ。孝は視線をそらせた。
「それ、本気で聞いてるの?」
 質問ではなかった。口調は穏やかだったが、明らかに孝を非難していた。
「いや、確認だよ」
 孝は言葉を濁した。全く想定外の事態だった。孝は話の継ぎ穂が見つからず、機械的にまた手を動かした。
 沈黙を破ったのは晴美だった。微かな溜め息と共に発した言葉が「別れましょう」だった。あらかじめ用意していた台詞せりふを棒読みしているようで、そこには何の感情も読み取れなかった。孝は二つ返事で同意するどころではない。
 産むともおろすとも言わず、「あなたには決して迷惑を掛けない」とだけ告げた。
「何か俺にできることはないか?」
 孝は完全に気圧けおされていた。
「そうねえ……」
 晴美は首をかしげてしばし考えて、旅行をねだった。
「……一泊だけでいいの」

 孝は、これ以上のかかわりは避けたかった。なるべく刺激せずに、すんなりと別れたかった。それを……。言わずもがなを言ってしまった。
「どこでもいいんだけど……」
 既に晴美の中では行き先は決まっているような言い方だった。
 こういう場合はいつも孝が何カ所か候補地を上げて、晴美がその都度うーんと首を傾げる。そんなやり取りを数回繰り返した後、晴美がぽつりと行きたい場所を告げる。以前はそんな時間を楽しんだこともあったが、今はそんなまどろこしい手順は踏みたくない。
「行きたい所があるんじゃないのか?」
 苛立いらだちを抑えて尋ねた。晴美は少し考える振りをした後、
「輪島……」
 と口の端からこぼした。それは、これまで晴美の口から一度も出たことがなかった地名だった。晴美は九州の出身で、親戚縁者もほとんど九州内に住んでいると、付き合い始めの頃聞いた記憶がある。
「輪島に……行きたい」
 孝はいぶかったが理由は聞かなかった。
「分かった。調べて、後で連絡するよ」

 孝は自宅に戻ると直ぐにインターネットの旅行サイトを当たった。どうみても羽田空港から能登空港まで飛んで、そこから車を使うのが一番早いのだが、晴美はなぜか鉄道にこたわった。
 乗り継ぎを調べると、東海道新幹線で米沢まで行き、JR北陸本線に乗り換えて敦賀まで行く。更にそこからハピラインふくい線で、大聖寺駅まで。更にそこから車で……。これでは何時間掛かるのか分からない。
 まだ北陸新幹線の終点が長野駅だった頃のことだ。

 翌日、孝は飛行機に変更するよう提案するため、晴美に電話した。
「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません……」
 無機質な音声案内が流れた。
 ん?
 電話番号を確かめたが間違いない。どうも携帯電話が解約されているようだ。
 ――どういうことだ?!
 アパートを訪ねたが既に引き払われていた。勤務先に確かめたところ、晴美は一ヶ月前に退社したと告げられた。故郷に帰ると言っていたそうだ。連絡先を尋ねたが、家族以外には教えられないと断られた。
 晴美との糸は完全に切れた。
 もっとも探偵事務所などに捜索を依頼する手もあるが、そうやって会っても意味がないと思った。


 一ヶ月前の退社と同時期のアパートの退去……。背水の陣とも取れる。
 会う前から晴美の心は決まっていたのだろう。そしてわずかな希望にけることにした……。

 多分、妊娠の話は嘘だ。

 晴美は、「妊娠したの」で孝の気持ちを探り、孝が「何か俺にできることはないか?」と聞いてきた時点で、孝との関係に見切りを付けたのだろう。
 でも……。

 その上で、晴美が「輪島に行きたい」と言った真意は何だったんだろう?

 知りたい気もするが、今更どうでもいい気もする。


 孝はスマホのアドレス帳を開いて晴美の情報を表示させた。削除を選択する。
 『削除しますか?』 『はい』 『いいえ』

 孝は少し逡巡しゅんじゅんした後、『はい』を押した。

<了>


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来戸 廉
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