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【ショート・ショート】コーヒーメーカー
コーヒーメーカーについて、今更とやかく説明する必要もないだろう。
私は今春から社会人になった。しばらくは自宅から通勤していたが、段々仕事が忙しくなり、意を決してワンルームマンションを借りて一人暮らしを始めた。
ワンルームしかなくて何がマンションだとの批判はご尤もだが、それは兎も角、電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機、それにエアコンと一通りの電気製品が備わっており、ガスコンロも使えるので、引っ越し当日から自炊することも可能だ。全く、便利になったものだ。
ただ、実際に料理をするとなると、いささかここの台所では狭過ぎるのだが……。
ところで、取り急ぎ今の私に必要な物はハンガーラックだ。そう、洋服を掛ける、あのハンガーラックだ。
これがあれば、洗濯したらそのまま吊して干して、乾いたらそれを着ればいいという、私のようなずぼらな人間には誠にありがたい代物である。洗濯は、自由な(自堕落な?)生活を得るのと引き換えに、私が手放した恩恵の一つである。だが衣服を取り込んだり、畳む労力は極力避けたい。そのために編み出したのが、本来の用途から少しずれるかも知れないが、上記の方策である。
私はハンガーラックを求めるために、商店街をぶらついていた。
商店街の通りにある家具屋にそれっぽいのを見つけたが、私が理想とするのとは少し違っていたので、冷やかすだけにして店を出た。他を見てみよう。洗濯物が籠一杯になるまでもう少し時間的に猶予がある。
何店か回ったが、気に入った商品には出会えない。まだ最初に見たのがまだ良いような気がした。
歩き疲れた私は、一先ず商店街の外れにあった古びた外観の喫茶店に入った。
からんからんとカウベルが私を迎えてくれた。
見渡すと如何にも昭和レトロという感じ(実際には知らないが、SNSなんかに上がっている写真と似た雰囲気だ)の店内だ。
入った正面の壁に陳列棚が設けてあり、コーヒーカップと皿のセットやサーバー、コーヒーミルなどの横に、黒い角張った製品が並べてあった。私はそれに興味を引かれた。
「これって、コーヒーメーカーですよね?」
私は注文を取りに来たマスターに尋ねた。
「ええ、そうです」
黒い塗装を施された面が柔らかく反射して、じっと見ていると、私に何か訴えて来るものがある。
「マスター、これ売り物なんですか?」
私は咄嗟に聞いていた。
「いいえ。趣味で集めてます。先日アメリカに行った時、古物店で買い求めたんですよ」
「インテリアとしてですか?」
「いいえ、今でもちゃんと使えますよ。このレトロ感、いいでしょう」
私はよくコーヒーを飲むが、ドリップコーヒーに拘るでもなく、缶コーヒーでも、インスタントコーヒーでも、その場にあるものならば何でも構わない……と思っていた。
だが私はこのコーヒーメーカーを見た途端、これで淹れたコーヒーを是非とも飲んでみたいと思った。
「マスター、これ譲ってもらえませんか?」
「いいえ、さき程も申しましたように……」
売るなど鼻から頭にないといった口調だ。尚更欲しくなった。
「買った値段の倍払うとすれば……」
買い値も分からないのに、この提案は無謀かとも思ったが、後には引けない。高いと言っても高がコーヒーメーカーだ。払えない額でもあるまい。もしべらぼうな値段だったら、しっぽを巻いて逃げ出せばいい。
マスターは逡巡していたが、首を振って「やはり……」と断りの文句を言い掛けた。私はそれを遮って、
「三倍出します」
つい口走ってしまった。
えっ。マスターは息を呑んだ。
「そこまで仰るのなら……」
マスターは、私がちょっと無理すれば払えそうな、それ以上だったら諦めるだろうという、絶妙な価格を提示してきた。
「それで結構です!」
私はほとんど衝動的に購入を決めた。差し当たりそれほど必要ではなかったにも拘わらず、かつ値切ることもせずに、マスターの言い値で買うことにした。
マスターは手放した後、少し後悔するような素振りを見せた。それは私を、いい買い物をしたと云う気持ちにさせた。
値段? それは言わぬが花だ。
さてコーヒーメーカーである。コーヒーを淹れるためだけにある機器で、ほかには使いようがない。かなりごつくて重量もある。私はこれを美しいと思った。
プラスチックの地色には出せない、黒い塗装を施された板金部品の面が、鈍く光を反射する。クロムメッキされた部品がぴかぴかに輝く。指紋の跡が付くと透かさず布で拭く。
私は、毎朝それを眺めるだけでうっとりするだろう。これで淹れたコーヒーを思うと、わくわく心が弾むだろう……。
しかし、大きな問題が一つ。まだ月初めで給料日まで三週間以上あるのに、財布の中には千円札が数枚しか残っていないという、何とも心許ない事態に陥ってしまった。とてもコーヒー豆を買う余裕などない。冷蔵庫は空っぽで、給料日までをどうやって飢えを凌ぐかだが……。
知恵を絞るほどでもない。私は、臆面もなく実家に助けを求めた。
「お前、バカか。少しは考えて金を使えよ」
親父の説教ぐらい我慢しよう。
「まあ、まあ。お父さん。それくらいで……。さあ、さあ。お腹すいたでしょう」
やっぱりお袋の手料理が一番だ。五月蠅い親父の晩酌に付き合えば、只酒も飲める。
流石に社会人として、こんなことぐらいで親に借金はできないが、食費が浮いた上に洗濯までやってもらえるのは大助かりだ。
という訳で今月だけ少し甘えさせてもらう(これも見方を変えれば借金か?)ことにした。
さて。待ちに待った給料日。今日から一人暮らしの再開だ。
通りの家具屋でハンガーラック(私の理想型ではなかったが)を買って、しばらくぶりに喫茶店を訪れた。
「いらっしゃいませ。ああ、先日はありがとうございました」
ほぼ一ヶ月ぶりなのに、マスターは私のことを覚えていてくれた。
「しばらく見えませんでしたね」
一足飛びに常連客になったみたいで悪い気はしない。
「海外出張で……。昨日帰ってきたばかりなんです」
嘘を吐いた。金がなくて実家に帰ってたなんて言えるはずがない。
「そうでしたか。お帰りなさい」
「ただいま」
曖昧に微笑みながら、そう答えた。まだコーヒーメーカーの使用譚については何も語れない。
トイレから席に戻りながら陳列棚に目を遣ると、コーヒーメーカーがあった位置に、先日買った物とほとんど同じのが置かれていた。
えっ。あれって……。
……してやられた。
私は思わず笑ってしまった。だが、あれ程までに上手く掌で転がされては、悔しいという気も起こらない。
ともあれマスターの淹れるコーヒーは旨い。
舌鼓を打っていると、カウベルがからんからんと鳴った。
暫くして、
「これ売り物なんですか?」
と尋ねる声が聞こえてきた。
<了>
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