嘘をつかなくてもいい
ピンク色の花びらがふんわりと膨れ上がった木々のなかに緑色の点々が鮮やかに光る。つやっとした若葉に日が照り返して、きらりとした。
ああ、季節が変わったのだな、と思う瞬間が好きなもののひとつだ。
「なんでも話してほしい。」と彼は言った。
うそっこひとつ、つかないでほしい、と言った。嘘をついてはいけないのではなくて、嘘をつく必要がないのだと言ってくれた。それはわたしにとって考えたことのない世界だった。
いつだって。わたしの心はわたしだけのもので、過去も未来もわたしだけだったから。自分だけが理解していれば、それでよかった。理解されたくない、とも思っていたのかもしれない。外交的に見えて、わたしはひとに自分の心を見られることがあまり得意ではない。嫌いなわけではない、得意ではない。どうやって、なにを、どこまで、誰に話せばいいのか分からない。
それでもこうして言葉を好むのは、あぁきっと彼のようなひとに出会うことを心から求めていたのかもしれない。そう思った。
平野啓一郎さんの「本心」を読んだ。愛する人の他者性がテーマだ。愛する人の他者性をどこまで理解できるのだろうか。どこまで理解したらいいのだろうか。あるいは、理解してもいいのだろうか。理解されたいのだろうか。そんなことを考えたくて、読んだ1冊。
この本の中では親と子の話がメインだが、(その他さまざまな関係性の登場人物による物語も含まれている。)わたしは、いまは結婚ということを考えている立場なので、本を読みながら彼のことを考えた。彼がわたしにむけてくれた言葉を反芻しながら、わたしたちはどこまでお互いを知っているのだろうか、考えた。
きっと知らないのだろうと思った。だけど、知りたいと思った。知ってほしいと思った。知られてもいいと思った。そして、伝えなければならない、と思った。わたしはそういうひとに出会って、生きていこうとしているのだということを深く、感じた。
平野さんのこの本は、平野さんの「分人」の考え方に当てはまって書かれていると思う。相手によって、自分を使い分け、ひとはいつもその中で好きな自分を探している。出来るだけ長く、好きな自分でいるほうが幸せなのだから、そういう相手と一緒にいることが大切なのではないか、分人の考え方からはそんな感じのメッセージを受け取っている。
わたしは嘘をつかないで生きていけるだろうか。自分を晒して、曝して、さらせるだろうか。それは怖いことなのではないだろうか。気持ちの良いことなのだろうか。わたしはまだきっと知らない。
わたしではない誰かと彼がいるときの彼の笑い方や物言いをわたしは想像ができる。わたしではない誰かに怒る彼の姿はまだ想像できない。わたしではない誰かを愛するときの彼の優しさを想像できる。それはいつか自分の子どもに向けてほしいと思うものだった。
わたしが愛する彼の他者性のなかにある優しさは、わたしに向けられたそれときっと変わらないのだろうと想像ができた。これがわたしが彼を信じられる理由なのだと思う。
彼を信じて、信じられて、嘘のない世界で生きていけますように。人生をかけて、理解し、理解され、誰かを幸せにできますように。やりとげたい。
そういうことを本を読み終わった時に思って、愛する彼が頭に浮かんで、涙が溢れた。そんな日曜日だったこと。春がやってきたことを、忘れないように。
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