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INFPへの愛を語る


前書き

 お久しぶりになってしまいました。note書いてないなあ、と思ってはいたのですが、時間と心理的な制約上、中々手がつきませんでした。書きたくなかった、というわけではまったくない、むしろ、書きたかったのですが、他にもやりたいことがあると、どうしても手が回らなくなってしまうんですよね。ただ、一日の中であれもこれもやろうとしたところで、無理が生じて、結局せっかくやること一つ一つをじっくり味わえなくなってしまう。それでは意味がないので、やりたいと思ったことすべてを無理にやろうとせず、今日はこれ、と一つでも目標を決めて、それができればよし、と思うように最近はしています。

 こんなところにこんなことを書いてもいいものかとは思いますが、noteは、等身大の自分を表現する練習、文章を書く練習、のためとも思っているので……正直、わたしは今、ほとんど仕事外の時間に生きているようなもので、けれど、仕事外の時間というのは、ほんとにこれぽっちというくらいに短く感じているのです。休日があまりにも少なすぎる。(できることなら、一日だって働きたくない身としては、ですけれども。)

 その少ない休日の中で、やりたいことをとにかく詰め込もうとしがちでしたし、今も、気をつけないと詰め込もうとしてしまいます。とはいえ、やりたいこと、に、実際できることが追いついていかないのは、とにかくもどかしい限りです。それだけでなく、最近まともにものを考えられていない、考える時間と余裕、脳を刺激してくれる読書ができていない、というのも悩みなのですが……悩みをあげていると切りがありません。

 さて、あんまりネガティブなことばかりを吐き出していても意味がないので、また、わたしは決して、ネガティブなことばかりを考えている人間ではなく、ネガティブなことばかりを書いていると、間違った自分像を作り出してしまうような気がするので、前置きはこれくらいにしておこうと思います。

これから書くMBTIについて

 前置きが長くなってしまいましたが、みなさまは、MBTIというものをご存知でしょうか。わたしは、大学生時代に16パーソナリティという簡易診断をきかっけに「MBTIへのいざない」という本を読んで知るに至ったのですが、今流行っているという言葉を目にすることもあるので、わりと知っている人は多いのかもしれません。これから書く内容は、わたしが本を読んで得た不完全な知識と理解に、関連のネット記事やブログを読んで得たこれも不完全な知識と理解と印象が加わり、さらに本を読んでから年数が経ってしまっているのもあり、相当の変形をとげた認識によるものなので、MBTIではない、MBTIもどきの話だと心して読んでもらえるとうれしいです。むしろ、まったく真面目ではない、お遊びのような話を書こうと思っているので、これはMBTIの話ではない、とはっきりいい切ってしまってもいいかもしれません。以下、知識的な内容に関しても、わたしの理解では、あるいは、わたしのうろ覚えでは、というカッコ書きが省略されていることをあらかじめ断っておきます。

 ここで詳しい説明はしませんが、MBTIでは、心の習慣タイプを、四つの指標を使って、「INFP」のように表します。これが、2×2×2×2の16通りあるということですね。このタイプによって人間の人格や、行動、考え方、価値観が決まるというわけではありませんが、そうした心の習慣、癖、といったものの影響や、それによるちがいを考慮に入れることは、その人を理解したり、コミュニケーションを取ったりする上での助けになるわけです。まあ、わたしは不真面目に、おもちゃのようにもてあそぶばかりで、ほとんど活用はしていないのですけれども、もっとも人とあまりコミュニケーションを取るということをしないので、活用するにしてもそんな場面はないし、あったとしても、その余裕はまだありません。

 さて、「INFP」という単語を出しましたが、そう、今回わたしは、INFPを指向する人、つまり、INFPタイプの人について書こうと思っているのです。本やマンガを読んでいたり、アニメや映画などを観たりしていると、このキャラクター、このタイプっぽいな、と思うことがあります。ほとんど、確信に近いものを得ることもあります。(っぽい、という表現を使っているところからしても、真面目な話をしようとしていないのがよく分かるかと思います。)今回書くのは、INFPタイプっぽいな、と感じたキャラクターや、作品の作者、また、身近なINFPタイプの人間であるわたしのきょうだい、INFPタイプの方々の書いたブログ等々を元にしたイメージを念頭に置いたお話です。

 わたしは、INFPタイプが好きです。このタイプについて書こうと思ったのには、身近にこのタイプの人間(わたしのきょうだい)がいて、16タイプのうち最も理解があるといってもよい、という事情もあるにはあるのですが、そして、このタイプへの愛も、とくに身近だからこそ生まれたものもあるにはあると思うのですが、それはさておき、ただ単純に、このタイプへの愛を語りたい、という自己満足のために、ここにつづります。

愛を語る①

 ついこの前、「ロード・オブ・ザリング」、日本語訳で、「指輪物語」の映画の一本目、「旅の仲間」を久しぶりに観返しました。「指輪物語」はまだ本を途中までしか読んでいないのですが、それが旅の仲間編までだったので、ちょうど本で読んだところまでを復習がてら観ることができました。やはり、映画の方はかなり省略されていて、展開も早く感じますね。

 「指輪物語」の作者、トールキンは、16パーソナリティのサイトでINFPの有名人として紹介されていたと記憶しています。実際、本を読んでいると、ものすごくINFPっぽいなと思ってしまいます。本来、タイプは本人でない他者が勝手に決めるものではないのですが、先にも書いたように、正直、この人はこのタイプだな、とか、このタイプっぽいな、と感じることはあって、それも、ほとんど確信に近いものを得ることもあります。トールキンに関しては、ほとんど疑いようがないのではないかと思っていますが、もちろん、断定はできないですよね。っぽいというのは、わざわざ分析をしてみた結果というわけでもなく、とはいえ、外から分析したところで少なくともわたしには分からないので、することにあまり意味はないと思いますが、わたしがしていないのは、ただ面倒だからというだけのおさぼりであって、とても浅はかな話であることにちがいはありません。ただ、トールキンを INFPタイプだと仮定するとして、やっぱりその作品に出てくるキャラクターも、みんなINFPっぽい。それが、しっかり者の頼れるアラゴルンでさえそうなのだから、読んでいてにやにや笑ってしまいそうになります。見ていて飽きないですよね。キャラクターの心の動き等を描くのは作者なので、その心の癖や思考の癖がキャラクターに反映されるのは当然ともいえるかもしれません。

 中々本題までたどり着きませんが、そろそろ、本題に入りたいと思います。ここで焦点を当てたいのは、主人公のフロドというキャラクターです。というのも、このキャラクターのことを考えると、INFPタイプのよさというのが、じわじわと浮かび上がってくるからなのです。以下、軽く物語の内容に触れるところが出てくるかと思うので、全く知りたくないという方はご注意ください。

 わたしは、INFPタイプのよさの一つ、あくまで一つですが、それは、他の誰もが目を背けたくなるような、そして大抵は、実際に目を背け、見てみぬふりをするようなものごと、たとえば、絶望、といったものに、真正面から向き合い、立ち向かっていける、また、他の誰もが背負えないような重大な責任を負うことができる、そんな強さがあるところだと思っています。
 後者の、責任を負うことができる、ということに関しては、あとでもう少し議論をしたいところなのですが、まずは、誰もが目を背けようとするような絶望といったものに、真正面から向き合い、立ち向かっていける強さがある、ということについて、INFPタイプの人たちからは、いやいやいや、と、反論の声が上がるかもしれません。それは強さなんかじゃない、目を向けずにはいられないから向けてしまうだけで、ある意味では、むしろ弱いから、目を背けて無視することができないんだ、というかもしれません。
 けれど、よくいうことですが、長所と短所というのは裏表で、それは、強さと弱さに関してもいえることですよね。ある視点からは、たしかに弱さだととらえることもできるのは事実だけれど、わたしは、それを強さだとみなしてよいし、みなしたいと思うのです。だって、INFPタイプの人が、ものごとに真正面から立ち向かっていく姿というのは、なんて不器用な、と思わずにはいられないところもないでもない……ですけれども、それはさておき、やはり、その姿というのは、強さ以外の何ものでもないと思ってしまう、感じてしまうから。
 そして、ものごとに真正面から向き合おうとするのは、それがINFPタイプ特有の心の癖であり、自然なことだからで、INFPタイプたる所以でもあるので、それを不器用だとか、弱さだとか、そういう風に捉える必要性はどこにもないのですよね。人間は生きていると自然にお腹が空きますけれど、INFPタイプがこの心の癖をいけないことだとしてもっと(それを器用と表現するなら)器用になろうとすることは、一日ごとに食事をしないとならないのは不便でいけないことだから、一週間に一度まとめて食べるようにしよう、そっちの方が便利だし人にほめられる、とするようなもので、そんな無理をしてまで便利や評価を優先させるだけの相当な理由が本人にあれば別ですが、わたしとしては、一日ごとに食事ができる環境を整える方がずっと賢明だし、何より、INFPタイプだからこその美点をなおざりにするような行為は、あまりにもったいない、と思ってしまうのです。
 ただ、わたしも、ものごとに真正面から向き合える、それが、たとえ他の誰もが目を背けようとするような絶望といったものであっても、向き合える、その強さがある、というのを、「よさ」と表現してしまうことに、まったくためらいがないというわけではないのです。と、いうのも、それがよさではないかもしれない、悪さかもしれない、といいたいわけではなく、ただ、あまりINFPタイプの人に苦しんでほしくはないと思うからなのです。フロドなどをみているとよく分かりますが、ものごとに真正面から立ち向かっていくという行為には、少なからず、苦しみ、苦悩、といったものが伴いますよね。反対に、そういったものが伴わないということは、どこかで目を逸らし、あるいは、盾のような防御をはって、身を守っているということなのだと思います。ものごとに真正面から向き合えることを、よさ、といってしまうと、それがあなたのいいところなんだから、進んで苦しんでくれ、と聞こえなくもない。とくに心の弱っちいわたしからすると、むしろ、苦しいことなんかすぐにやめなよ、といいたくなってしまうのがほんとうだし、わたしは、どちらかといえばそう思っています。
(わたしもまた、あれこれと考えすぎてそれなりに苦しんだ経験がある身なので、その分、苦しみの苦しみをある程度知っている、というのも、そう思ってしまう、いいたくなってしまう所以ではあると思います。苦しいのはゴメン、というのを、人にもおしつけようとしてしまうんですよね。
 ただ、おしつけであると分かってはいても、やはり、苦しくていい人間がいるわけないじゃないか、と信じている節もあって、親しい間柄でなければわたしは何もいいませんが、とくに親しくて大切な人相手だと、こうしたらああしたらと余計な口出しをしてしまうのです。
 人の苦しみだとか、悩みだとかを取り除いてやろうとすること自体は、そんなに悪いことではないと思うのですが、まあ、ちょっと傲慢ではありますけれど、そんなつもりは決してないですし、悪いのはそのやり方なんですよね。INFPタイプ相手に限らず、こうしたらああしたらと口出しをすることは、その人のやり方や生き方を否定することになってしまうことがある、その人の要領の悪さや不器用さを責めているように感じさせてしまうことがある、というのは、わたしも最近分かってきているのです。
 とはいえ、よかれと思って口にしたことが、ことごとく裏目に出てしまうなんてことは今でもしょっちゅうです。わたしは狭量な人間なので、それが暴言になるかどうかを考えるのも億劫がってしまったり、暴言になるかもしれないと分かっていて、自分のやり方を分かってほしい気持ちで諦めきれず、自分本位な発言をしてしまったり……あくまで、親しい仲の人間が相手のときに限った話ではありますが、人を傷つけないことを完璧とするならば、完璧からはほど遠い態度をとってばかりだなと思います。
 ただ、同時に、完璧を目指すつもりもないと思っていて、ある程度のわがままは、お互いに対等な、フラットな関係でいるためにもむしろ必要なことだと思うのです。と、いうのも、あくまでわたし一人のスタンスでしかないのですが。自分が、あくまで自分が、ですが、誰かを相手に人を傷つけない完璧な態度をとろうだとか、誰かをコントロールできるだとか思うことは、ちょっと傲慢すぎる、と思うようにしています。ただの言い訳にはちがいありません。もちろん、人のことは極力傷つけたくないし、そうするべきだと、思っています。)

愛を語る②

 話が少し逸れてしまいました。INFPタイプの人の感じ方や考え方、やり方、そして生き方を否定することなく、そして、そのすばらしい「よさ」をしっかりと守りつつ、あまり苦しまずにすむ術を探っていけるといいなと思うのですが……難しいですよね。(一番手っ取り早くて、ベストなのは、やっぱり環境を整えることでしょうか?)
 ただ、わたしがここではっきりいっておきたいのは、INFPタイプの人は(INFPタイプの話をしているので、ここではINFPタイプの人を主語にしております)、ありのままでいていい、ありのままでいるべき、だということです。ほんとうは、こんな偉そうなことをいえた分際ではないのですが、わたしはそう思っています。とにかく、自信をもって、堂々としていてくれたらいいなあと。学校だとか、職場だとか、効率や物事の処理速度、要領のよさといったものが求められるような環境下では、INFPタイプの人は、自信を失うようなことや、周囲からそうした言葉や態度を浴びせかけられるようなことが、もしかしたら少なくないかもしれません。(MBTIは、人の能力を決定するものではないので、もちろん、そんなことはないという人がいても、まったくおかしくはありません。ですが、処理能力の高低に関わらず、処理すること事体に高い関心をもつ人は多くないのではないかと想像します。)
 けれど、それは、たまたまその環境において求められる能力とその人の能力……というよりも、やり方、ですよね、それが合致しないことが多いというだけで、人格やその人の価値が下がるようなことは完全にありえません。そもそも、その人の価値、といったものは……価値などといったものを語ることさえ、ほんとうは少々ばからしいことだと思わなくはないのですが、とにかく、人の価値というのは(人の価値に限った話ではありませんが)、自分を含め、人の手で上げたり下げたりできるような相対的な代物ではない、絶対的なものなのだから、あたりまえといえばあたりまえのことなのですけれども。人間の世界では、相対的な視点も使えた方が便利という意味で、それもまた一つの視点、見方ですよね。何にせよ、誰に何といわれようと、本来は、自信を失うようなことも、自分で自分の価値を下げるようなことも、不必要なはずなのです。まあ、そんなの、ほとんど無理な話ですよね。人をけなしちゃあよくない……けなす方にとっても、特にいいことはないはずです。
 
 少し脱線にはなってしまいますが、人に対して、使えるの使えないのといった表現が使われることが多々ありますよね。価値がある、ない、といった表現も同様ですが、わたしは、こういった表現は好きではないなあ、と思うのです。
 どんな人がどう使うかによって、必ずしも好きではないというわけではないのですが、好きではないと思うのは、第一に、使えないだとか、価値がないだとかいわれた人は、大抵の場合傷つくからで、また、そうした表現をよく使う人は、「使えない」あるいは「価値がない」=「この仕事、この場に限定した話においては、この人は役に立たない」ではなく、それを、=「その人そのものに価値がない」と履き違えて使っている場合が多いように感じるからです。人がどのような認識でその表現を使っているのかは外から判断できないので、あくまで感じる、にとどまる話ではあるのですが。考えてみると、実際はそんなことない場合も、また多いような気もしてきます。
 また、使える使えないのものさしを駆使することで発揮される能力や成果もあるのだろうし、そうしたものさしに特化するあまり、他のものさしが使えなくなり(あるいは、使えるようにならず)、視野が狭くなったり、視点に限りができてしまったりしたとしても、それはある程度仕方のないことなのかもしれない、と思ったりもします。そして、そうしたものさしを駆使できる人というのも、またこの人間社会には必要な存在なのでしょう。
 ただ、ほんとうは他に変え難い価値があり、優れた力をもっているはずの人間が、何の価値もないもののようにみなされ、ぞんざいな扱いを受けているのを見聞きすると、もどかしい気持ちになるし、腹も立ちます。人格否定などは言語道断ですね。
 その人の価値を十分に認めている人が、そして、その人を傷つけない場合にいう「使えない」は、とくに問題ないと思います。わたしも、そのときの気分次第ですが、自分の価値を十分に認めてくれている人に、使えない、といわれても、それは決して自分の価値をおとしめるものではないので、気になりません。
 まあ、わたし自身は、人に使えない、なんていえないですけれども。そんなことをいえるほど偉くもないし、なるつもりもないから、そして、使えないという言葉は、大抵の場合、人を傷つけると思っているから。それもときと場合によるけれども、なんというか、それだけで攻撃性をはらんだ言葉のような気がします。

 ところで、補足ですが、わたしは、INFPタイプの人は、決して仕事ができないなんてことはない、と思っています。(とくにタスクタスクの仕事に関して、好きになれるかどうかは別の話として。)
 むしろ、人一倍物事がみえていて、分かっていることも多いのではないでしょうか。ただ、いろいろと分かっているのだということが、遠慮して口にしないがために伝わらず、人は、その人が自分よりもいろいろと分かっている、分かっていたということに気がつかないまま終わる、なんてことが多いのではないかと想像します。後々になって人が、こうだったじゃないかと気がついたとき、そんなのとっくに気づいていたし分かっていたよ、なんならちゃんといったし……なんてことは、少なくないのではないでしょうか。
 人をデキない奴だと(無意識かもしれませんが)決めつけ、言い分に聞く耳をもたなかったり、その人の自信を失わせ、発言をためらわせるような空気感を作ってしまうのは、それこそ、仕事ができるとはいえないと思うのですが。人間完璧になんてなれないことは分かっているし、わたし自身反省するところがなくはないので、えらそうなことは何一ついえたものではないのですけれども。
 INFPタイプの人は、仕事をてきぱきこなすことに重点を置いている人からすると、もたついてみえたりするかもしれませんが、仕事ができないわけでは決してなく、目に見えない部分もふくめ、手順ややり方が異なっているだけの場合が多いのではないかと思います。(たとえ仕事が速くても、それ自体をとくに重視しないがために、あまりアピールしようとせず、人に気がついてもらえない、ということや、遅い部分ばかりに注目されて、速い部分に気がついてもらえない、なんてこともあるのではないかと想像します。)
 ただ、仕事をてきぱきこなすことを重視している人の中には、そこに気がつけるだけ人を注意深く観察する習慣をもっている人は、いないことがないのも知ってはいますが、少ないのかもしれません。が、正直にいうと、あんまりそれをいい訳にしてほしくはないですね。

愛を語る③

 さて、INFPタイプのよさとして、一つ、他の誰もが背負えないような、重大な責任を負うことができる、ということをあげましたが、それについて、追記をしたいと思います。
 と、いうのも、重大な責任を背負うことができるのは、INFPタイプに限った話ではないですよね。責任感が強く、それに耐えうる体力、精神力をもっている人なら、別にMBTIタイプが何だって責任を負うことはできるし、ロードーオブザリングでいえば、最終的に、サウロンの指輪を葬るという目標が達せられれば、それを担うのは誰だってよかったわけです。
 フロドと同じように、指輪に侵されにくいという前提があるとして、フロドが担った役割を、他の別の誰か、それも、別のMBTIタイプの誰かが担っていたとしたら。そして、目標達成までこぎつけたとしたら。それも、フロドよりも器用でスマートなやり方で、あっさりと目標を達成してしまうかもしれない。それはそれでおもしろい物語にはなるかもしれません。もちろんフロドもスマートでかっこいいですが、それとはまたちがった意味で、スマートなキャラクターがスマートに物事を解決する物語というのも、またおもしろい。かっこいいですよね。
 
 友人から聞いた話なのですが、最近は、精神年齢の高いデキるキャラクターの方が人気で、不器用でデキないキャラクターは、見ているといらいらしてしまうからといった理由で、倦厭されやすく、売れにくいのだとか。
 マンガやアニメが特にそうなのかなと思うのですが、たしかに、思い返してみると、最近のマンガアニメは、といっても、大して知っているわけではないのですが、多いような気がしますね、デキる人たち。君たち一体いくつ、え?、高校生!?、と思わざるをえない大人なキャラクターたちばかりです。(わたしが幼稚なだけかもしれないですが。)
 みんなかっこいいし好きですが、これが現実の社会の反映で、より、デキる人が優遇され、デキない人、つまりは、使えない人が冷遇されがちな世の中になっているのだとしたら、それは少し、悲しいことだなとも思います。世の中のことはあまりよく分かりませんが、社会的には、個人の能力というのが、より求められるようになってきているみたいですよね。どこも人出不足な今、使えるハイスペックな人間が、より欲せられているということなのでしょうか。(デキる人はかっこよくて、デキない人はいまいち、というのも、一つのものさしによるものでしかないのは、いうまでもないことですよね。)

 そういった傾向もあるみたいですが、わたしは好きですよ、不器用で、デキないキャラクター。といっても、わたしはフロドをデキない、とは思わないのですが。共感するし、応援したくなるし、人間味にあふれていて魅力的です。
 話を戻すと、フロドが担った役割を、別の誰かが担っていたとしたら、目標は達せられても、そこに「ロードオブザリング」という物語は発生しなかっただろう、別の物語になっていただろう、というのはいうまでもありません。 
 ですが、物語の顔たるという役割だけではなく、フロドは、非常に重要な役目を果たしていると思うのです。フロドは、世界の存亡を左右する重大な任務を負うことになるわけですが、旅の途中、何度も立ち止まり、悩み、考えるシーンがあります。責任をただ果たせばいい、というのではなく、責任を心でも背負うのです。自分の任務について、責任について、その意味について、自分とは、世界とは、そういったことに向き合い、考え続けるのです。フロドも、誰かのためにそうしているというわけではなく、フロド自身のためにそうしているにすぎないのかもしれませんし、その姿は、ともすると、まわりくどく、非効率的にもみえます。人の手をわずらわせることもあるかもしれません。
 しかし、悩み、苦しみ、立ち止まりすることは、INFPタイプの人が、ものごとを消化していく上で必要な過程であり、やり方で、他の誰もが背負えない大きなものを真正面からとらえ、背負うために、その強さを発揮している瞬間でもあります。フロドの任務というのは、指輪を運ぶということよりも、むしろ、世界中の人の心を預かるということなのだといえるかもしれません。むろん、フロドにそのつもりはないかもしれませんが。自覚もないかもしれません。しかし、だからこそ、人は彼に自分らの命運を決定するような重大な任務を安心して任せられるし、旅を共にする仲間たちも、知らず知らずのうちに、自分の心を預けているのではないでしょうか。みんな、フロドがいるからこそ戦えている、というのは、大いにあると思います。フロドには、ちゃっちゃと指輪を運ぶ技量も器用さも必要ないのです。
 また、これは少し別の話ではありますが、旅の中で、これもまた自分らの命運を左右するような判断を、フロドが任せられるシーンがありますが、もちろん、理屈的にはフロドだけの責任ではないにせよ、そこでもフロドは、目にはみえなくとも、誰もやりたがらないような重たい仕事を一つこなしていることになりますよね。判断を誰かに委ねてしまう方が、気持ち的に負う責任は圧倒的に小さいですから。フロドもみんなを頼るし、みんなもフロドを頼っているということなのだと思います。
 そして何より、フロドが、世界や自分と向き合い、考えてくれるおかげで、わたしたち読者もまた、ロードオブザリングの世界と、そして、自分の住む世界と向き合い、知ることができます。フロド等々、INFPタイプの人たちは、この世界がどんなものなのかをみせてくれ、また、この世界に意味づけをするという役割を果たすことが多いように思います。
 実に、INFPタイプの人たちは、この世界を意味のあるものにしてくれる人たちだ、というのは、この記事を書き始める前から書きたいと思っていました。たとえばですが、誰かが会社を起こし、利益をあげ、社会に何かしらの恩恵をもたらしたとしても、そこに意味づけをする人がいなければ、そこに意味はないままです。その恩恵によって、人が笑顔になるかもしれないけれど、笑顔になって、それがどうしたというのだろう。もちろん、人が笑顔になるのは、素晴らしいことですけれども。この世界のあらゆる存在、あやゆる営みに意味づけをしてくれる人がいるからこそ、なんというか、この世界も虚しくない。これはロードオブザリングで指輪を託されたのが、他の誰でもない、フロドであった意義であるといえば、納得のいく答えの一つになるのではないでしょうか。
 むろん、もしフロドではない別の誰かだったとしたら、そのときは、それはそれでありなのではないかと思います。誰にだって、その人それぞれの価値があり、そのときには、また別の意義が生まれるだけのことで、その意義にも、同じくらいの価値があるはずです。
 とはいえ、意義、意義といってしまいましたが、どちらかといえば、意義なんて別になくたっていいじゃん、というのがわたしの考えなのですけれども。

最後に

 結局、役割がどうの、意義がどうのという話をしてしまいましたが、直前にも書いたとおり、わたしは、人間役に立つのも、意義のある存在たるのも、特に大事なことだとは思っていません。使えることも、社会には必要とされるかもしれませんが、本質的には必要ないし、重要ではありません。どんなに役に立とうが立たまいが、人に意義を認められようが認められまいが、わたしたちは、その辺に転がっている石ころと同じです。(もちろん、意義や意味が欲しければ、つけたっていいし、つければいいのです。)
 わたしもまあ、多少は生きていくのにある程度のスキルは必要で、あった方が便利だよね、とは思っていろいろ(最低限と思われるくらいには)身につけようとするんですが、そうでなければ、人生ゴロゴロぶらぶらして、好きなだけ考えごとをして、怠惰に暮らしたい……同時に、何かをやってみること、挑戦することも、また好きではあるので、結局、何もしない人生、というのは、あまり想定していないのですけれども。何かできることがあった方が、人に自慢できるしね。
 
 INFPタイプの人たちは、何よりも魅力的で、みていておもしろい存在です。わたしとしては、それでまったく十分すぎるくらいに十分だと思っています。INFPタイプの人たちへ。みなさんは、ありのままで堂々といてください。そして、わたしを、もっともっと楽しませ続けてください。
(……念のために。あれこれと書きはしましたが、こうでなきゃこうしなきゃと思うことはまったくないし、そうして欲しいと思って書いたわけではありません。こうして書いたことが、誰のプレッシャーにもならないことを望みます。あくまで、ありのままで。まあ、きっと杞憂でしょうけれども。)

 とりとめのない、分かりずらい文章を書いてしまいました。そうじゃない、ちがうんだよなあ、と抗議したいところもかなりあったかもしれません。わたしも、思っていること考えていることのほんのちょびっと、端っこの部分くらいしか書くことは、分量と時間の制約上できませんでした。ですが、INFPタイプの人たちは、理解力のある頭のいい人たちばかりなので、なんとなく、わたしのいわんとすることも分かってくれたのではないかと、ほんの一端でも垣間見てくれたのではないかと、勝手ですが思います。INFPタイプの人たちは、おそらく自分の価値は一番自分で分かっている人たちでもあるので、このような記事は、ちょっとした午後のおやつ程度にでもなればうれしいです。

おまけ

 ちなみに、わたしのMBTIタイプはみなさん読んでいてお分かりになったでしょうか。わたしは自分をINTPだと思っているのですが、この人同じINTPタイプっぽいなと思うのは、「月と六ペンス」などて有名な作家のサマセット・モームです。うーん、他に選択肢がないような……あとは、あのバレーボールの、ハイキューの、作者さんでしょうか。でも、あんまり適当なことは書けないですね。
 それから、今までのわたしの記事にスキをつけてくださった中で、自分のMBTI タイプを表明されている方は99.9%がINFJの方々でした。まったくもって悪い意味ではなく、思わず笑ってしまいました。とてもうれしかったです。(もちろん、他のMBTIタイプにもいえることですが、INFJタイプの人たち、と一括りにするつもりは一切なく、一人一人の思いを、一人一人の思いとして、ちゃんと受け取っています。)ちょうどINFJタイプの人が書いたブログ記事を、なんとなく気になっていろいろと読んだりしているところだったので、何か運命的なものを感じないでもありませんでした。SNSのしくみをいまひとつ理解していないので、とんちんかんかもしれないですが、わたしの記事がINFJの方のページに表示されやすくなっていた、ってことあったりするんでしょうか。
 それはさておき、もし次にMBTI関連の記事を書くとしたら、ぜひINFJタイプについて書いてみたいなあ、という気持ちはあるのですが、なにせ人づきあいの極端に少ないわたしには、この人INFJタイプだと分かって直接関わった経験がない。加えて、わたしにはあまりない感覚をもっているタイプでもあり、想像するのも中々難しい。書ける自信はほとんどありませんが、もう少し、プログ等々読んでイメージを膨らませてみようかな、と思ったり。

 文章を書いていると、とくに、なるべく簡潔に書こうとしていると、どうしてもすべてを語りつくすことはできないし、あらゆる方面をフォローするのは難しい。ある程度の語弊を生み出してしまうのは避けようがない。この文章が、どこかで読んでいる人の心にぴりっとしたものを与えてしまうのではないか、いや、与えないことなんてきっとないだろうなと思うと、多少の葛藤がなくはありません。身近にいる人になら、そんなつもりで書いたんじゃないよと伝えることもできるし、足りなかった部分をつけ足して説明というか、弁解というか、することもできるけれど、そうでない人たちにはそれができない。読者の方には、わたしの文章には、少なからず言葉足らずなところがあると心して読んでほしい、なんて、無責任な願望を抱いたりしています。

 最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
 これからは、もっと簡潔で短いものを、もう少し高頻度で書けたらなと思っています。

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