好きなときに、好きなだけ わたしとファッションについて
今日は日曜日(三週間ほど前のことです)。今は朝の六時半です。土日は目が早く覚めがちで、今朝は久しぶりに四時半には目が開いてしまいました。それからは、あれやこれやと脳に浮かんできて寝付かれず、とはいえ眠いことには眠いので、覚醒しているのだか、うとうとしているのだか、よく分からない状態でベッドでごろごろしているうちに、スマホで時間を確認したら六時二十分。ベッドを抜けて、起き出してきました。母ゆずりのクマが、いっそう濃くなってしまったかもしれません。鏡で顔を見たとき、そんな気がしました。
(母は、えっ、アイメイクしてないの? と驚かれるくらい、クマというのか、目のふちの黒いものも含め、ばっちりとクマがあります。わたしのは、それに比べれば基本的にわりとうっすらで、アイメイクをしているように見えるのかどうなのかは、人に聞いてみたことがないので分かりません。顔が暗く見えないように、ある程度は隠したいところですが、名探偵コナンの赤井ファミリーとおそろいだし、あんまり悪いものだとは思えない。なんだかんだ、気に入っていたりするのです。隠そうと思えば、隠せますしね。
嫌なのはホクロです。できやすい体質のようで、顔が水玉模様にならないうちに、早いところ手を打たなきゃなあと思いながら、ずるずるとここまで来てしまったのですが、先日、とうとうポイントで使える美白クリームを購入するところまで漕ぎ着けました。漕ぎ着けたといっても、わたしは、母の漕いでくれた船に、ただ乗っていただけなのですが……。結構、値が張りますよね。最近出費がかさんでいたので、気持的に財布のヒモはかなり固くなっていたのですが。どうこういってもいられない案件だったので。必要な出費です。実は、昨年の春ごろからときどき、さぼりがちに使っていた美白用の美容液もあるので、ホクロ対策(メラミンを増やさない)としては、二段構えになったわけですが、あとは、肌をとにかくいたわってやることですよね。
まあ、ホクロも年輪のようなものだと思えば、そう悪いものだとも思えなくなるかも……しれません。ちと厳しいですね。でも、ホクロの多いすてきな人を目にすると、ホクロが多いのも、そんなに悪くはないかもな、と思えるときもたしかにあるのです。何にせよ、適度に気にしつつ、気にしすぎないことは大切ですよね。増えるものは、増えるので。気にしすぎたところで、自分を不幸にするだけです。)
さて、前置きが長くなってしまいましたが、前回の記事のおまけで少し触れたファッションについて、今回は、ちょうどいい機会でもあり、意欲も湧いているところなので、自分を振り返りつつ、少し書いてみようと思います。
みなさんは、ファッションは好きでしょうか? あるいは、どんな印象をもっているでしょうか? ファッションは好きだ、楽しいものだ、という人もいれば、嫌いだ、面倒臭いものだ、という人、頑張らなければならないものだ、辛いものだ、と思っている人も、いるのではないでしょうか。
かくいうわたしも、少し前まで、ファッションは、とにかく面倒くさいもの、だと思っていました。決して嫌いというわけではなく、今振り返って自分に問い返してみると、どちらかといえば、わりとずっと、好きではあったのだと思います。けれど、着る服、買う服を選ぶという行為は、とてつもなく面倒で面倒で、選ばなければならないとなると、それは苦痛でさえありました。
たぶん、他のことで忙しかったのでしょう。興味がまったくなかったわけではないのですが、優先順位は低かったのです。服を選んでいる時間があれば、それよりも本を読んでいたかったし、物語を書いていたかった。
そして、ネットショップや、雑誌や、ファッション関連のものをちら見してみても、いまいちピンとくるものがなかった。これは、ファッションに関心が向かなかった要因として、かなり大きいのではないかと思います。引かれるものがなければ、興味が湧くはずもないですよね。
わたしがやることといえば、ただ、母が探してきてくれたものに、good、badをつけるだけ。いいね、かわいい、かっこいい、とか、好みとちがう、自分じゃない、とか。
結局のところ、それで十分すぎるくらいに好きな服、かわいい服、かっこいい服が着れていて、全然事足りてしまっていたのです。(着る本人にはほとほとやる気がなく、今思えば、出来栄えというか、見栄えというか、それも、それなりでした。)
自分で探してみようとしたところで、ネットや雑誌の上には服がありすぎて分からないし、そもそも、自分がどんな服を着たいのかもよく分からない。何を見ても、なんかちがう、ような気がしてしまう。
もう分からない、面倒くさい、興味もない。もう、何でもいいよ。いっそ、上下とも常にジャージで。それでいいよ。忙しいし、ファッションのことなんか考えている暇はないし、興味もないし、自分にはそれがちょうどいいくらいかもしれない。そんな感じでした。
(世の中には、おしゃれでかわいいジャージがたくさんありますけれど、わたしの想定にあったのは、そういうおしゃれなジャージではなく、そのときのテンションにふさわしい、いいとも悪いともいえない、当たり障りのないようなものでした。まあ、そういうキャラで通すとするならばともかく、どこへでもジャージじゃあ、現実は、当たり障りありますよね。)
わたしも本気ではなかったし、母にも、それはやめてくれ、といわれてしまったので、実際、常にジャージ、になることはありませんでしたが。
おしゃれでかっこいい服は着ていたい、ダサいのは嫌だ、けれども、ファッションに対する思考は停止させてしまいたい。なんとも、わがままな状態でした。
それが、気がついたら、ファッションに前よりも興味が湧くようになって、服を見たり、探したり、選んだり、といった行為を(ある程度は)楽しめるようになっていたのです。
いえ、どちらかといえば、気がついたら、服を見たり、探したり、選んだり、といった行為を楽しんでいる自分がいて、ファッションに興味が湧くようになっていた、といった方が、順番としては正しいかもしれません。
きっかけは、何であったか、思い返してみると、服を見るのが楽しかった(モデルさんを見るのが楽しかった、かもしれません)最初の思い出は、Giselleという雑誌を、母と、双子の姉のこのみと、三人で開いて見たところからでしょうか。それ以前から、自分で買う服を選んでみよう、という努力をし始めてはいたと思うのですが、楽しかったかどうかはちょっと怪しい。これは今でも変わりありませんが、うんうん頭を悩ませていた覚えはあります。
とにかく、この雑誌に最初に目をつけたのは、母だったか、このみだったか、とにかくわたしでなかったのは確かですが、わたしにとって、たぶんこの雑誌との出会いはかなり大きかった。気がついたら見るのを楽しんでいた、そんな感じでした。
もちろん、雑誌だけでは、何も起こらなかったと思います。第一、雑誌に出会うことすらなかっただろうし、出会ったとしても、一体何年先になっていたことか。わたしもずいぶんいい年になっていたかもしれません。母とこのみがいたこと、それは、わたしにとって最高の幸運でした。
Giselleという雑誌のよさは、ファッションに特化していて、他の余計なことが書いていないということです。余計なことというのは、共感できないことという意味で、ファッション+(プラスアルファ)のことが書いてあったとしても、それが共感できるポイントから大外れでなければ、別にいいのです。ただ、もしも、+が書いてあって、それが、共感ポイントから大外れであったとしたら、今ほどこの雑誌を好きにはなっていなかったと思うし、ファッションに対する興味も、今ほどには、湧かないままだったかもしれません。
(たとえば、ファッションによって人に差をつけようとか、こうしようとか、ファッションによる効果を期待してファッションを工夫するのだ、と思わせるような文言があると、まったく共感もできないし、そんなことのために自分は頑張れないよ、とげんなりしてしまうのです。
まあ、これは分かりきったことではありますが、書き方も、感じ方に大きく影響を与えますよね。こうしよう、こうなろうといわれても、やる気を引き起こすのはかなり難しい。ええ、頑張らないとダメ? となってしまう。かっこよくあれたら、それはうれしいけれど、頑張らないとならないならなあ……それなら、頑張らなくていいや、と。
こうするとこうなる、ああなる、といい切られているか、こうしてみよう、と、「しよう」ではなく、「みよう」の形になっている方が、わたしの場合は、ストレスが少ないように思うのですが、みなさんは、いかがでしょうか。)
わたしが最も共感できるのは、何事も、そのものを楽しむ、という姿勢です。Giselleという雑誌を好きだと思えるのは、わたしの思いちがいかもしれませんが、ファッションそのものを楽しむという、その姿勢を感じさせてくれるからで、この雑誌に人格があるとすれば、「彼」に共感できるからでもあります。
共感というのは、人の興味を引く、大きな要因なのかもしれません。ファッションに興味がない、という人は、もしかすると、わたしと同じように、共感のできる何か、に出会っていないからかもしれません。
ファッションに対して興味が湧くようになった、とはいえ、わたしの面倒くさがり精神は健在です。毎日、今日は何を着ようか考えるのはおっくうで、あれを着てみたり、これを着てみたり、そんなことを楽しめるのは、百回に一回くらいかもしれない。
(一回でも楽しめるようになったとすれば、それはわたしにとっては大きな進歩です。)
平日の服は制服化しているし、休日の服だって、だいたい決まった組み合わせのものを着てしまう。部屋着は常に同じ。面倒なものは、やっぱり面倒だし、どうでもよくなってしまうこともしょっちゅう。いや、どちらかといえば、そちらの方がノーマルかもしれない。今のわたしは、そんな感じです。
でも、わたしは、それでいいと思うのです。何事も、楽しめる範囲で、楽しめるやり方でやればよいと思うのです。
人間、頑張るのは難しい。頑張ったって、いや、もちろん、頑張ることで得られる成果もあるのはたしかだけれど、ファッションなんてとくに、頑張らなくたって死ぬわけではないし、楽しめないのにどうこうするなんてもったいない。
むしろ楽しんでこそ、センスは磨かれ、芯(真)からのおしゃれが、花開いてくるものなのではないでしょうか。
完全に気を抜いてしまえば、ダサくなるのは簡単です。わたしは今でもよく、気の抜けたダサい服装をしてしまうのですが、ダサくなりたくなければ、ちょっとは気を使う必要がありますよね。
楽な服装をするときでも、色づかいに多少気を使うとか、バランスに気をつかうとか、そういうことは必要になる。靴下の色ヘンだけど、ワンコのお散歩行くだけだしまあいいや、とよくやってしまっていたのですが、最近は、そういうちょっとしたときの気づかいも、少しは、するようになりました。
(とはいえ、まず、ヘンかどうかも分からないときがあるので困りますよね。)
ファッションに関心が湧くようになった今でこそ、そういう気づかいもあまり苦にせずできるようになりましたが、関心がないと、そういうちょっとした気づかい、たとえば、靴下の色一つとって、吐き気がするほどに、考えるのがおっくうだったりします。
そういう意味では、ファッション、というか、服装に多少気をつかいたいという気持ちがないわけではない場合には、多少の頑張り、多少の努力は必要になるといえるかもしれません。
(ちょっとしたとき、あるいは、細かな部分への気づかいができれば、むしろ、それはもう十分に大したものですよね。細やかな部分への配慮は、おしゃれへの第一歩ともいえるのではないか、と思います。)
でも、必要最低限と思う範囲以上のことは、(必要最低限と思う範囲は、人によっても、人の、そのときの状態や、修練度や、意識の高さや、そういったものによってもちがってくるだろうから)、つまり、そのときその人が、最低限と思う範囲以上のことは、楽しめなければやらなくていいし、楽しめるようになったときに、楽しめるときにだけ、やればいいと思うのです。
面倒くさがりな自分がファッションに対して、いや、人生上のあらゆるものに対して、といってもいいかもしれません、意識をしているのは、先にも書いた、「楽しめる範囲で、楽しめるやり方で」ということです。それが、その物事に対するやる気を高め、もっと好きになる、もっと楽しくなるコツでもあると思うのです。
必要最低限と思うレベルがあまりに高すぎて、ただただしんどい、楽しめる領域になんて、到底たどり着ける気がしない、なんて人は、そんな場合には、そのレベルを下げるところから考えてみるのも、一つの選択肢かもしれません。
なんだって、ほんとうにそれは必要だろうか? を突き詰めてみると、ほんとうに必要なものってほとんどない。必要最低限のレベルは、限りなくゼロに近づけていけるはずです。24時間常にジャージだって、別に困ることはない。何の問題もないのです。
わたしがまだ手を出せていないのは、メイクです。仕事をするようになって、これくらいやっておけば十分でしょ、と、ファンデーションと、眉毛を書くくらいはするようになりましたが、それ以上のことは、ほとんどやりません。日焼け止めを塗って、粉状のファンデーションを筆みたいなものでまぶして、眉毛をなぞって終わり。それが今のわたしの、ばっちりメイクです。
スーパーへ行くだけのときなど、用事や気分によっては、日焼け止めだけのときもあるし(ホクロを増やしたくないので、日焼け止めだけは必ず塗っています)、どこまでやるかは、臨機応変です。試しに買ってみた色つきのリップも、2、3回使って、もうしばらく使っていません。
わたしがまだ学生で、今ほどファッションにも興味が湧かなかったころ、成人式のメイク用に母が買ってくれたメイク系の美容雑誌だったか、開いてぱらぱらめくって見てみたときには、情報量の多さに圧倒され、書いてあることのすべてが、いえ、すべてといってしまうと大げさかもしれませんが、それらが、おどし文句のように見え、げっそり疲れ果てて本を閉じたのを覚えています。
そのときよりは、メイクというものを、前向きにとらえられるようになっている気はします。でも、まだ、手を出す気にはなっていません。ほんの少し手を出してみたり、でも、やる気がしなくなって、また引っこめる。今は、そんな感じでしょうか。
ファッションを楽しんでいれば、いずれは、メイクももっとやり出すときがくる、かもしれません。でも、今はまだ。
それで、いいと思っています。いずれ、やる気になったときにやれば。そして、やる気がなくなったときや、やる気のないときは、いつだってやめてもいいのです。
何だって、好きなときに、好きなだけやるのがいいですよね。
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