言語の圧縮率について【哲学】
こんにちは! くるくるぼっちです。
今日は「言語の圧縮率」について考えてみたので整理していきたいと思います。
言語の圧縮率
まず、言語の圧縮率とは何を指しているかと申しますと、
という日常会話に出てくる曖昧な言葉から、
といった小説などに出てくる文学的表現、
そして
などといった四字熟語のことです。
これらは全部、A,B,Cで説明しないで概念を言語化したものだと思うのです。
私は言語学のことはわからないので、これらに名前がついているのかどうかも知らないのですが、ここ数年これらのことについてよく考えるのです。
空気を読ませる曖昧さ
先ほどの、概念を言語化したものは我々の空気を読む社会を作り上げた要因ではないかと考えます。
わたしが以前、仕事でぶち当たった壁の一つが「説明」です。
ある日、上司から「どうして説明をしないんですか?」とメールが来たことがありました。わたしは、「説明」が何を指しているのかわからず混乱したことを覚えています。
「説明」がどういう意味なのかはわかります。しかし、上司の人が認識している「説明」の前後関係がわからないのです。「説明する」と言う行動の中に含まれる具体的な行為についての言及がない中で、一言「説明しないんですか?」と言われると、どう返信していいのかわからなくなりました。
その曖昧な表現に、「空気を読む」ことが要求されるのだと思うのです。
まあ、そんなこんなで、わたしの中で「説明」と言う言葉はトラウマになっていたわけです。
さらに、曖昧な表現については、認識のズレを避けるため、きちんと確認すると言う行動に出るようになってから人間関係の形成は、より困難になりました。
そんなこんなで、概念を圧縮すると効率はいいが、うまく使いこなせてないなあと思っていたのです。
時空を越える文学
情報の圧縮
一方で、わたしはよく本を読みます。
他人と共同作業をするときに、わたしを混乱に貶める「曖昧な表現」は、別の側面から見ると「文学的表現」となり、今度はわたしに好意的になるのです。
文章はいくらでも長くできます。
1000文字の中からどのくらいの情報を得たのか。
30文字の中からどのくらいの情報を得たのか。
杞憂は心配を指します。
「じゃあ、心配するって言えばいいじゃん」
と言ってしまえばそれまでですが、文字情報で成り立つ文学において、言語の圧縮は絶対です。
会話でもそうです。「なんだかよくしゃべる割にはあの人なんも情報ないなあ」とか。(思わないかw)
でもわたしは、よく思うのです。
そういう情報の詰まってない、謎の会話は「無駄な時間だな」と思ってしまうのです。
「圧縮した文学的表現」は、たった二文字ほどでたくさんの情報を詰め込むことができます。(二文字に限りませんが)
それが今度は、とっても豊かな表現につながるのです。
時空を越える文学
文学は、ときに時空をコントロールできます。
「好き」の一言を原稿用紙200枚で表現したものが恋愛小説です。
読んだことないのにここだけ聞いたことある有名な一説です(わたしは、「トンネルの抜けるとそこは雪国だった」と思ってました)。
皆さんも聞いたことあると思います。
この一文を読むと、情景が頭に浮かんできますよね。
うんうん、見えてきました。
文学というのは、こうやって時空を越えることができるのです。
圧縮率の高い会話まとめ
これまで、言語の中には、具体的な事象を条件や状況によって変えて概念によってまとめた言語が存在するという話をしてきました。
たくさんの選択肢を持ったそれらの言語を、ときには空気を読みながら具体的な行動を推測し、ときには、長ったらしい行動をサクッと二文字にまとめ、ときには、情報量の多い会話を端的にします。
頭のいい人の会話を聞いていると、
「ああ、圧縮率が高くて気持ちがいいなあ」と思います(笑)
わたしも人と会話するときに、気持ちいい人とめんどくさいなと思う人がいます。
前提の知識や教養、専門分野が近い人との会話はとてもスムーズですよね。
共通認識が多いと、高い圧縮率でたくさんの情報を行き来させることができます。
まあ、それが、ハイコンテクストになりがちで共通認識を持たない人に空気を読ませるという現象に繋がるということになるのですが。。。
ってことで。おしまい。
言語についての知識が浅く、すでにみんな知ってる単語とかになってたりするのかな? この感覚。ってなってます。
とは言え、人に教わるのは苦手なので、こうやって地道に自分で考えて答えを探しているところです。
本日の哲学終わり!