#75 友という関係・自分の存在
最近自分に友達っていたんかなと思うことがある。
今まで生きてきて気を使わず何もかも心から話せたことがあっただろうか。
まあ。そもそも偶然、学校やバイト、職場で出会ったきっかけで会う他人同士だし
ほとんどが他人で終わるわけで、
本心で語り合える仲のひといたかなって考えたら
片手で数えられるくらいな気がする。
ちゃんと受け止めて投げ返してくれる友達(親友になるのかもしれないけれど)
過去を振り返ってみると、自分は1人になっている状態の人に話しかけたりすることが多かった。グループで話すのも楽しいけれど、ほとんどが少人数でそうやって無意識に
全体のバランスを取るためだけに話をしていた。
お節介野郎だった。
すごい気を使って話して、話の大半が相手の話を聞いていた。
自分の悩みや辛いことなんて話さず、みんなの悩みや辛い体験を聞いて疑似体験していたのかもしれない。
そして、自分が経験した人かのように自分に思い込ませていた。
結果、今の自分の中身は空っぽ。
面白いこと、経験したことを一つとして話す自信がこれっぽっちもない人間になった。
人と話すには、ネタが必要不可欠。
最近どこどこに行った、映画を見た、こんな練習をしている、こんな活動をしているだとか。
それが極めて少ない
最近何をしたかと聞かれたら、起きて、仕事行って、帰ってゲームして寝るの繰り返ししかしていない。
生きているようで死んでいる。
一歩も成長していない。ただ死ぬのを待っている。
何も面白くない、そう考えていくと、自分の人生って面白くないなと思う。
そりゃこんな自分と遊ぼうとしてくれる人もいないだろうし、声もかけづらいだろうなと思う。
なんか面白いことと考えた結果
思いついたのは『生前葬』だった。
とりあえずこれやっとけば自分が死んだ時周りはどんな感じなのか分かるし
最悪葬儀もこじんまりとしたもので終えられる。
25歳にしてもう終活を始めようとしている。
まあ江戸時代とかだったらもういい年だし、何か自分の意思に反することをしてしまい切腹していればもう死んでいる歳だろうから普通っちゃ普通なのかな。
自分がこの平成に生まれ令和に変わり何を求めて生まれてきたのか本当に分からなくなってきている。
小さい頃から母の足に隠れ、気軽に声をかけられない性格が全く治っていない。
ほとんど無言で終わる。
前よりもひどくなっている。
いやこれが本当の自分なのかもしれない。
今までうまくいきすぎただけで、今現実を味わっているだけなのかもしれない。
自分の力、地位はこの程度だって知らされているのかもしれない。
周りの人に下駄履かせてもらってただけで実力は、ないことを今知らされている。
周りはこうならないために努力してきたんだと思う。
生きていること自体申し訳ない生きていたくない。
死ぬのにもお金がかかる。
葬式代、火葬代、一人暮らしの部屋の撤去費用、奨学金などお金というルールで縛られ無理やり生かされている。
買いたいものも買うのを諦め、生きていくためだけに、日々ただ黙々と作業を繰り返す、旧型AIになろうとしている。
周りは知らない人、信用できるかなんて分からない場所で、なんで生きてるんだろ
いきたくないと思いながら、今は死ぬために頑張っている。
何も思考を巡らせない世界に行ける
死というゴールが今の僕にとって最大の幸せなのかもしれない。
マイナスな気持ちになるといつもここまで降りてくる。
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