クルクリ世界遺産noteアレクサンドロス大王1
さて『道』をテーマにした時空旅行が続いております。
(以下、過去回の紹介)
人、物資、思想、信仰、科学技術、情報、疫病など、あらゆるものが往来する『道』。それが各地に異文化交流をもたらし、交易や文明が発展。広大な領土を統治するのにも『道』が必要不可欠だということがよく分かりました。
さて!今回は紀元前4世紀。張騫が大月氏を目指した時代から200年ほど遡って、アレクサンドロス大王東方遠征の道にスポットを当てたいと思います。
きっかけはこちらの番組!Netflix『アレクサンドロス大王』アレキサンドリアの古代遺跡でアレクサンドロス大王の墓探しに、20年以情熱を注ぐカリオペ・リムネオス=パパコスタ氏。専門家たちのインタビューを交えながら展開していく再現ドラマ。おもろー。
ということで。今日も元気に行ってみましょー!
古代マケドニア
アレクサンドロス3世の故郷マケドニアはギリシャ世界では少し浮いた存在だったようだ。
ポリス(都市国家)ではなく、複数の都市を有する領域国家。また、一夫多妻制などペルシア的文化を持ち、ギリシャ人からはバルバロイ(異国語を話す野蛮人)などと呼ばた。
紀元前6世紀末の裁判で法的にギリシャ人と認められ、当時の国王アレクサンドロス1世がマケドニアで初めてオリンピアに参加。
▶︎オリンピアの考古遺跡
オリンピック発祥の地。紀元前10世紀にギリシャ神話の主神ゼウス信仰の聖地となり、紀元前8世紀にゼウスに奉納する『オリンピアの祭典』が4年に1度開催されるようになる。
紀元前776年には休戦協定『エケケイリア(=手をつなぐ)』を制定し、出場選手や観客の安全のため開会7日前〜閉会7日後まで停戦すると定めた。
紀元前470〜前457年ゼウス神殿建設。聖域を囲むように、ヘラ神殿、スタディオン、ギムナシオン、練習場や浴場からなる複合施設パライストラが立ち並ぶ、まさに古代オリンピック村。
近代オリンピックの聖火は、ヘラ神殿の凹面鏡で太陽から採火している。
その後、ローマ時代にキリスト教が国教となり、393年の『オリンピアの祭典』をもって古代オリンピックは幕を閉じた。
フィリッポス2世
アレクサンドロス大王の偉業は、父王フィリッポス2世の功績によるところも大きい。彼が受け継いだマケドニア軍の強さは父王が築いたものなのだ。
①スピードと機動性
当時通例だった戦地への従者や妻子の同伴を禁止。これにより、非戦闘員とそのための物資を大幅に減らし、軍隊のスピードと機動性が向上。
②マケドニア式ファランクス
重装歩兵の密集陣形。父王フィリッポス2世が磨き上げたマケドニア式では、サリッサと呼ばれる長さ6メートルの超長槍を装備。方形や楔形の密集陣形で一糸乱れず動くのが特徴。さらに重装騎馬兵ヘタイロイを配備して機動力も発揮した。
↑↑この状態に自分の食料30日分を背負って50kmもの道のりを走破するマケドニア兵。勝手に休んだり、装備を解いたりすると厳罰に処されたという。やはり、古代人の肉体構造は現代人より遥かに優れていたに違いない!
③ギリシャ世界での覇権確立
紀元前338年カイロネイアの戦いでは、父王と共に18歳のアレクサンドロス3世も参戦。アテネ・テーベ連合軍との激闘を制して勝利。スパルタ以外の全ポリスがコリントス同盟に加盟し、ギリシャ世界でのマケドニアの覇権が確立した。
▶︎エゲ(現代名ヴェルギナ)の考古遺跡
マケドニア王国前期の首都遺跡。紀元前5世紀にエゲからペラに遷都したが、エゲ近郊のネクロポリスからはフィリッポス2世の墓を含む300基以上の古代墳墓が発掘された。
アレクサンドロス大王の墓は、エジプトのテーベに埋葬された後、アレクサンドリアに移したと言われているが、現在もまだ発見には至っていない。パパコスタ氏の執念が実る時が一日も早く来ることを願う!
フィリッポス2世は地方の貴族などを抑えて中央集権を固め、ギリシャ全域から有能な人材を登用して国力を高めた。息子アレクサンドロス3世の家庭教師としてアリストテレスを採用したことも有名ですね。
アレクサンドロス大王の東征
紀元前336年。マケドニアではアレクサンドロス大王が、東の大国アケメネス朝ペルシアではダレイオス3世がそれぞれ即位。
フィリッポス2世はペルシア侵攻を目前にして護衛に暗殺されてしまう。三角関係のもつれなどという超個人的トラブル説。いつの時代も不貞はいけません!
この時弱冠二十歳で即位したアレクサンドロス(3世)大王は父王の意思を継ぎ、その後わずか10年でダレイオス3世を討ち、広大なアケメネス朝の領土を手に入れた。
小アジアの征服(前334〜前333年)
紀元前334年春。いざ出発!約1ヶ月でアジア大陸への玄関口ダーダネルス海峡に到着し、海を渡るため海軍と合流する。
ここで大王は本隊から離脱し、少数部隊を率いて伝説の古都トロイへ。
▶︎トロイアの考古遺跡
ホメロスの叙事詩『イリアス』にもあるトロイア戦争の舞台と言われる古代都市遺跡。紀元前3000年から後500年までの8つの時代の都市が層になって埋もれている。
1873年にシュリーマンによって発見された。すでに発掘されていたイリオン遺跡の下に眠っていたのだ。しかし、この第2層はトロイア戦争よりはるかに古い時代のものであることが判明。その後の発掘で、破壊や火災の跡、傷ついた人骨などが見つかった第6層や第7層がプリアモス王のトロイアと推測されている。
恩師アリストテレスからもらった『イリアス』を愛読していた大王。ペルシアとの大戦を前に聖地巡礼である。船から上陸すると、槍を浜に突き立ててアジア征服を宣言したという。
本隊と合流し、いよいよグラニコスの会戦でペルシア軍と対峙する。大王は派手な武具で存在感を示し自ら陽動作戦に出る。あわやの場面で側近に救われ、そのまま優位に立ち勝利した。
この会戦で特筆すべきは、ペルシア軍の後方に控えていた約5000人のギリシャ人傭兵への処遇である。待機していただけで参戦をしなかった傭兵の降伏の申し出を拒否。3000人を殺戮し、2000人を捕虜としてマケドニアに送り強制労働を課したのだ。裏切り者に容赦なしを初戦で示したのだ。
初戦を勝利したマケドニア軍は、『王の道』の起点であるサルディアを制圧、エフェソスへ。
▶︎エフェソス
多くの巡礼者を集めるアルテミス神殿は、かつて後世に名を残そうと目論んだ男に放火された。人々は絶対に名を残すまいと一切記録しなかったが、いつの時代もどこかで情報漏洩は起こる。気になる方はググってね。
その後再建されたアルテミス神殿はフィロン『世界の7つの景観』の一つとして登場する。
ヘレニズム時代からローマ時代の遺跡が残るが、海岸線が西に移動したことで、各時代の遺跡が新たな海岸線沿いに残る。
エフェソス、ミレトスと南下しながら諸都市を制圧していく。ここで大王は海軍を解散氏、「陸から海を制する方針」に転換する。陸からの人員や食糧の補給を絶てば、艦隊が自然消滅することを見込んだのだ。
この方針が功を奏すか否かは、翌年エーゲ海での制海権争奪戦で明らかになる。
その後、ハリカルナッソスでは激しい抵抗を受けるも、なんとか制圧。通常冬には行軍しないが、父王フィリッポス2世に倣い、アレクサンドロス大王も小アジアの内陸へと軍を進める。
しかし、ここで新婚将兵たちを本国に帰国させるという粋な計らい!人望を上げるのはもちろん、少子化対策という未来を見据えた一石二鳥の策である。
ここからは進撃の大王劇場である。カリア→リシア→パムフィリア→ピシディア→フィリュギアと順調に進み、着々と小アジアを制圧していく。
▶︎クサントスとレトーン
小アジア南部にある海洋民族リュキア人の遺跡。ギリシャ神話の怪鳥ハルピュイアのレリーフが見られる『ハルピュイアの墓』は柱墓。柱の上部に石棺を納める墓穴を備えたもの。
レトーンは女神レトに由来。アポロンの母であるレト、アポロン、アルテミスに捧げられた神殿遺跡。
いよいよ中央アナトリアに迫るアレクサンドロス大王が訪れたゴルディオン。ここは2023年新たに世界遺産に登録されたフリギア文明の古都である。
▶︎ゴルディオン
紀元前10〜前6世紀に繁栄したフリギア王国の都は『ゴルディオンの結び目』で知られる。複雑に結んだ縄を解いた者が、アジア全土の支配者となるという予言があったのだ。アレクサンドロス大王は剣でブッツリと縄を切り落とし、見事中央アジアまでを支配することとなった。ズル(?)せずちゃんと解けばもしかしたら…??
さてさて。まだまだ東方遠征は始まったばかりですが、すでにクルクリの疲労感はMAXです。
今回は小アジア制覇までで区切りといたしましょう。
→つづく(多分)
参考資料
おまけの『特別展ポンペイ』2022年8月
ここからはご購入いただいた方へのおまけ写真集&資料です。
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