30話『信託』47歳、まだ何者でもないワタシ物語
なんと!本日連続投稿101日目だそうです!
(100回記念じゃないんかい)
note世界の先人たちの中で、100日目など「へっくしょい」の「へ」いや、「へ」の前の息を吸う間くらいのもの。
それでも毎日わずかでも言葉を発し続けてきたのだなぁと、節目を感じるわけです。
いつの間にかフォロワーさんも50人を超えていて…。うん、中にはフォロバ目的の方もいるでしょうから、読者と言えるフォロワーさんはその中のひとにぎりだと認識しています。
でも、一方的ですが『繋がっている』と感じるご縁もあると思えるようになりました。
そんな中で芽生えたのが発する責任みたいなもの。
『自己満足の発表会』として始まったnote。もちろんこれからもそのスタンスは変わらないのだけれども。
以前、ドキュメンタリー番組で耳にした言葉が思い出されたのです。
これは映画『すずめの戸締り』公開時の新海誠監督の言葉。
断じて自分を新海誠監督と同列に並べる訳ではありません!
ただ、no+eという表現の場に身を置くようになった今、あの時と違ってこの言葉がとても深く刺さるのです。
実はワタシはある作品でひどく傷ついたことがあった。
映画『風立ちぬ』である。
この作品を批判するものではありません。
単純にワタシは思いがけずこの作中の女性の決断に傷ついてしまったという話。
※以下、ネタバレを含みますのでご注意ください。
作中の女性は愛する人と結ばれるも、結核を患い日に日に弱っていく。幸せな日々の中、突然愛する人の前から姿を消した彼女の理由は「一番美しい自分を遺したいから」
当時、難病によって日に日に体の自由を奪われ「こんなみっともない姿」と涙してばかりの母。施設に入りたい母と、共に生きたいと願う父。そんな現実がリンクして、彼女の自分本位な決断に心が砕けてしまったのだ。
ちゃんと見直してみれば、この物語の本質はもっと違うところにあるのかもしれない。でも、ワタシはそれ以上見続けることはできなかったし、今はまだもう一度見てみたいという気持ちになれていない。
ジブリ生まれとまで豪語しているクルクリですが、まさかのジブリ作品に玉砕した経験もあるのだ。
これは全て自分が『受け手』である話。
これから『物語を作る』に挑戦していく中で、意図せず誰かを傷つけてしまうことがあるかもしれない。そのことを頭の片隅に置くことは大切なことである気がしている。
それと同時に、受け手である『読者』を信じて託すことも大切なはずだ。
なんだか今日は思いが整理しきれない文章になってしまったが、連続101回目の節目として、自分なりの「書くこと」に真摯に向き合ってみた話である。