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クルクリ世界遺産note シルクロード(天山回廊)

クルクリ世界遺産noteにご来場ありがとうございます。
世界遺産という『扉』から旅に出る。クルクリ的学びと、壮大な妄想時空旅行の記録です。
まだまだ未熟な学びですので、学術的な正確さについては寛大な心でご容赦ください。

前回は、紀元前6世紀の『王の道』の旅。広大な領土を統治するために『道』が果たす大いなる役割がよく分かりました。

『王の道』がアケメネス朝ペルシアの領土を網羅する国内幹線道路だったのに対して、『シルクロード』は大陸横断道路である。

その旅路はあまりにも長いので、今回は開拓者張騫ちょうけんの軌跡に絞って、彼がもたらしたグローバル社会を旅してみようと思う。


3つのルート

クルクリ『シルクロードマップ』

シルクロードには大きく3つのルートがあるが、今回は時系列で最も古い『草原の道』から進んでみよう。

草原の道

北緯50℃付近のステップ地帯は遊牧民族の生活圏。黒海北部を中心に活動していたスキタイは、アケメネス朝と同時期に全盛期を迎えた世界史上初の遊牧騎馬民族である。

ヘロドトス著『歴史』にも記述が残るというから、やはり一度じっくり読まねばなるまい!

彼らの持つ高度な騎馬技術金属器文化は『草原の道』によって東方の遊牧民に伝わり、中でも匈奴はそれを良く吸収して強大な国家となる。

匈奴といえば、戦国時代から中国はその侵攻に脅かされてきて、七国それぞれに長城を築き、後の『万里の長城』となるわけだけれども。

クルクリバイブル『キングダム』の総集編に掲載された読切り『李牧』は、クルクリ的キングダム名シーンのトップ5に入ります。北方守備のために来た雁門でのあんなことやこんなことが…ふがふがふが(萌)。

あ、話を戻します。

遊牧民は自分たちの生産物(乳製品、肉、毛皮など)を、南の農耕民の生産物(穀物や布など)と交換して衣食の安定を図っていた。

この南北交流こそが交易のはじまりはじまり。

機動性の高い遊牧民が農耕民の定住地に赴き交易することで、そこにマーケットが誕生。その市場を東西に繋いでできたのが『オアシスの道』である。

ベクトルでいうとこんなイメージだろうか。

クルクリ『草原の道とオアシスの道』

『草原の道』はスキタイ、匈奴、突厥、モンゴル民族と約2000年もの間、様々な遊牧民の東西交流を支えた。

張騫の大冒険

物語は東の中国から始まります。

わずか16歳で即位した第7代武帝は前漢全盛期の皇帝となる。特に外征では積極策を打ち、その版図を大きく広げた。

武帝は『匈奴挟撃作戦』を立て、西の大月氏に共闘を持ちかけようと使者送る。その使者の公募に「我が我が!」と熱烈に手を挙げたのが張騫ちょうけんだったと『史記』には記されている(らしい)。

クルクリはコツコツとへそくりを貯めて『史記』を4冊入手したが、残念ながら匈奴列伝はまだ手にしていないので読んでいない。

さて、長安を出発した張騫は帰国までに13年を費やすことになった。以下はざっくりと張騫が辿ったルートを記したものである。

クルクリ『張騫ルート』

長安からバクトラまで直線距離で約4400km。これだけの迂回と地理的な難を乗り越えて帰国を果たしたのだから、張騫もまた古代人らしい超人的肉体の持ち主であっただろう。

匈奴での10年に及ぶ捕虜生活や、脱出後の大宛国(フェルガナ)や大月氏、大夏での歓待ぶりから、性格的にも真面目な愛されキャラだったと推察する。

ちなみに往路復路ともまんまと匈奴に捕まり、捕虜時代に匈奴で娶って置き去りにした妻とその間にできた子との再会を果たす。クルクリなら駆け寄った瞬間フルボッコにするところだが、結局妻子と共に帰国したらしいので、まぁ良しとしよう。

そんな張騫の冒険を楽しむならこちらの書籍がオススメ。

張騫の功績は東アジアと西アジアを『道』で連結させたこと、その『道』に東西交流という大きな役割を持たせたことだろう。

張騫のもたらした西域の詳細情報や西域諸国との国交によって、東西の文化交流が盛んになり交易も活発化することになる。

【西→東】
仏教はじめとした宗教、天文学や学問、芸術、綿栽培、織物やガラス製造の技術、ブドウやザクロなどの果物

【東→西】
絹、紙や陶器の製造、火薬や印刷の技術

天山回廊

張騫によって一気にグローバル化された東西アジア世界を『天山回廊』に沿って歩いてみよう。

クルクリ『天山回廊』

東の起点洛陽(唐代の都)からレッツゴー!

龍門石窟

5世紀末、北魏の孝文帝が遷都した洛陽に築いた中国最大規模の石窟寺院。中国三大石窟寺院の一つ。繊細な装飾が特徴である。最大窟の奉先寺洞ほうせんじどうにある盧舎那仏は空前絶後の女帝則天武后を模したとされる。

ルートからは外れるが、中国三大石窟寺院繋がりでこちらも。

雲崗石窟

北魏前期の都だった北の平城にも中国三大石窟寺院の一つがある。文成帝が高僧の提言に従い『曇曜五窟』を開鑿かいさく。自身を含む5人の皇帝を模した大仏を建立。洛陽遷都以来存在が忘れられていたが、1902年建築家の伊藤忠太が再発見。特に第20窟の如来坐像は傑作とされる。力強く大規模な石仏が特徴。


オアシスの道は洛陽から函谷関かんこくかんを抜けて漢代の都長安へ向かう。函谷関といえば前241年秦が合従軍を迎え撃った地。クルクリバイブル『キングダム』名シーンTOP5に入るさいの戦いでの『不抜』は痺れた〜っ!

そんなさいの辺りに秦の始皇帝陵が見えてきます。

始皇帝陵と兵馬俑坑

日本が誇る人徳天皇陵古墳クフ王のピラミッドと並び、世界三大墳墓に数えられる始皇帝の陵墓。この遺産については、2022年−2023年『兵馬俑と古代中国展』と、興味深い史料紹介を合わせて別途アップしたいと思う。


長安を抜けて祁連きれん山脈を横断する河西回廊をさらに西に向かうと、シルクロードの中継地点として発展したオアシス都市敦煌です。

敦煌の莫高窟

敦煌は前2世紀末ごろ武帝によって軍事拠点として建設されたが、後220年の漢帝国崩壊に伴って宗教拠点に変化していく。

市街地の南東25kmに位置する莫高窟は龍門石窟、雲岡石窟と並ぶ中国三大石窟寺院の1つ。

4世紀半ばに西方から来た楽樽らくそんが掘り始め、次いで東方の法良禅師がさらに広げたのが始まりとされる。

敦煌文化は東西アジア、インドやガンダーラ文化が融合したもので、まさに文化交差点を代表する遺産と言える。

1900年に蔵経洞で5万点以上の経典や文書、絵画などの『敦煌文書』が発見されたのを契機に、敦煌学という新たな学問のジャンルが誕生した。

↓↓↓こちらはクルクリ敦煌訪問記。(栃木県日光市のやつ)

クルクリ『敦煌(東部WS)』
クルクリ『敦煌(東部WS)』
クルクリ『敦煌(東部WS)』


ここからは大きく分けると①天山北路天山南路と、タクラマカン砂漠の南側を迂回する③西域南道の3つのルートがある。どの道も2000km以上西へ進むと中央アジアのジェティス(セミレチエ)地方に到達する。

険しい地形に阻まれたその先に、いよいよ新しい世界が見えて来ました。

張騫が匈奴の地から脱出して逃げ着いた大宛(フェルガナ)汗血馬かんけつばの産地として有名。武帝も匈奴討伐のために強くこの馬を欲しがり、李広利に遠征させて獲得した。

そのフェルガナの南方に領土を構えた大月氏は、当時サマルカンドなどを支配し豊かに暮らしていた。

文化交差路サマルカンド

シルクロードのほぼ中央に位置する「人々が出会う街」。アケメネス朝ペルシアやアレクサンドロス大王の時代から、この地のソグド人はここを拠点として活発に商業活動をしていた。超やり手商人である。漢代には漢人と匈奴との『絹馬貿易』仲介役としても活躍している。

ブハラの歴史地区

紀元前5世紀には城壁をもつ要塞都市が成立していた。アケメネス朝の影響を受けペルシア語が発達した地で、紀元後にはソグド人が都市国家を築く。その後もシルクロードの要衝として繁栄し、中世にはイスラム教化した。

国立歴史文化公園“メルヴ“

紀元前6世紀から盛衰を繰り返すオアシス都市。アケメネス朝時代の日干しレンガを円形に積んだ城壁で囲まれた『エルク・カラ』などが残る。シルクロードの要衝としては、最も古く最も良い状態で残る都市遺跡である。


漢を出発し、匈奴を経由して大月氏へ辿り着いた張騫。軍事的な同盟は実現できなかったものの、東西交流による文明の発展には大きく貢献したことが分かる。

13年に及ぶ張騫の大冒険。もちろん決して短くはないが、これだけの道のりを生身の肉体で渡ったのだから並ではない。

いつか旅人になったら文明の利器をMAXフル活用して横断ツアー…と思っていたが。最高の撮影クルーによる良質の旅番組で行った気になることにする。(弱気)

今回のシルクロードの旅第1弾はこれにて終了〜。

→つづく(多分)

おまけの大シルクロード展

ここからはご購入いただいた方へのおまけの写真展です。(2024年5月東北歴史博物館にて)

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