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鎌倉殿、そして御家人の墓へ【鎌倉殿の13人ゆかりの地を巡る日帰り旅#2】2022年10月
これから、鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の墓に向かいます。
ちなみに、鶴岡八幡宮から東門の鳥居を出てすぐあったのは、こちらの「畠山重忠邸址」。
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清廉潔白な人柄と、武勇の誉れ高く、坂東武士の鑑として知られる「畠山重忠」。その最後は大河ドラマでもとてもドラマチックに描かれておりました。
こちらの階段を昇っていきます。
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こちらは「源頼朝の供養塔」で江戸時代に島津家が整備したといわれています。
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島津家が供養塔を立てた詳しい経緯は不明ですが、島津家の祖である島津忠久が、 源頼朝の落胤だったという伝説があるといわれます。
なお、頼朝の墓であった法華堂は、その建物はなくなってしまいましたが、この敷地にあったそうです。
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それでは、鎌倉殿の御家人の墓に向かいましょう。
こちらの階段を昇っていきます。
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すると広い敷地が見えてきました。
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ここには、北条義時の墓である法華堂があったところです。
広さ770平方メートルほど。
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現在建物はありませんが2005年の発掘調査で、この平場の地下から墳墓堂(ふんぼどう)の遺構が発見されました。発見された遺構の位置が、『吾妻鏡』に記載された頼朝墓からの方位と地形と一致したことから、遺構は北条義時が祀られていた北条義時法華堂の跡であると推定されています。
遺構は現在の地表より下にあるため、保護するために調査後は埋め戻しを行い、草地として維持管理しています。遺構の真上には、調査でみつかった法華堂の礎石や柱の跡、雨落ち溝の跡の実際の位置を木杭や石で地表に示しています。
この法華堂跡の奥にあるのが、三浦一族の墓、三浦一族のやぐらです。
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1247年の宝治合戦(ほうじかっせん)において、法華堂で北条軍に攻められた三浦泰村以下一族郎党500余人が自決したもので、この地に葬られました。
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ちなみに、三浦泰村は、大河で大活躍している三浦義村の次男です。
どこか寂し気な感じがします。
次の御家人の墓は、こちらの階段を昇ったところにあります。
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こちらは大江広元の墓。
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最高実権者である北条義時を上回る正四位を得ており、少なくとも名目的には将軍に次ぐ存在でした。
大河ドラマでもその重鎮ぶりが抜きんでていますよね。栗原英雄さんの渋い演技にいつもしびれています。
この墓は江戸時代に広元の子孫である毛利氏の 長州藩 によって作られた供養墓であり、地元の言い伝えによると鎌倉市十二所の山中にある五輪塔が本来の広元の墓とされています。
広元の墓と並んで島津忠久、毛利季光(もうり すえみつ)の墓もあります。
毛利季光は大江広元の子で、毛利元就を生んだ毛利氏の祖です。