転換点
前回も書きましたが、これで僕らが漠然と信じてきた安全神話のようなものは完全に、塵一つ残らず消え去ったと思う。
他国から軍事力によって理不尽な侵略戦争を仕掛けられ、国を壊され、人を殺され、街を支配されても誰も変わりに戦ってくれたり、助けにきてくれやしない。
僕らが信じていた神話は倫理と法の秩序を重んじることによって維持形成される恒久的な平和だったと思うが、倫理と法を自分の都合のいいように解釈して、感情論で動く権威者によっていとも簡単に破壊された。
今のウクライナの現状は明日の日本の状況となりえると僕は思う。このような謂れのない侵略戦争を仕掛けられた時に今の日本に自国を守る術はたぶんない。
今回のこの現実を目の当たりしてはっきりしたことは、少なくとも自分たちの身は自分たちで守らなければならないという厳然たる事実がある、ということを以前より深く認識しなければならないということだと思う。
何度も言うが安全神話は塵一つなく消え去った。
僕らはこの共通認識のもとにこれからの国防に関する議論を今すぐにでもはじめなければならない。僕は政治家でもなんでもないただの労働者だけれども、だからこそこの国のことを考えなければいけないと思う。
それが民意というものの本質じゃないだろうか。
政治家が頭で考えだしたものじゃなく、今この国に住んで普通に毎日を過ごしている人の生活の中で醸成されるものの総意。すべての意見が一致することはないけれど、民主主義的な総意。国防に関するその総意をはっきりと全員で決めないといけない。
このままの日本であり続けるなら今のウクライナとは比較にならないほど酷い暴力にさらされる可能性があるんじゃないだろうか。
ただし、前提条件として僕たちが何を望むかという問題があると思う。
国が支配されるとはどういうことなのかを僕は理解できていない。庶民の生活水準においてその変化はどれほどの変化になるのだろうか。
例えば、今まで通り普通に出社して働いて帰ってネトフリ見てご飯食べて風呂入ってゲームでもして寝る、というサイクルができてしまうのであれば国の名前が変わろうがトップの人間たちが何人だろうが俺たちになんの関係があるんだ?
そんな気持ちにもなりそうだ。
ただこのウクライナの現状を見ると、そんな甘いものじゃない気がする。
今まで生きてきた家や
一緒に暮らしてきた家族や
思い出がちりばめられた町
それを壊されて、殺されて、
「はい、じゃあということでね、色々あったけどごめんね。とりあえずここ明日から中国だからさ、まあ今までと同じ同じ。うん、ちょっと名前変わるだけだから。もう日本じゃないってだけでさ、大したことないよね?だってさ、何人か死んだかもだけどとりあえず君は生きてて、これまで通り生きていけるんだからさ。まあ大変かもだけど、よろしくね。」
属国、隷属、奴隷。
虐げられた人間の感情はきっとそんなに簡単に消えるものじゃない。いじめられた人が何年も何十年も、下手したら死ぬまでその記憶に苛まれて憎しみに囚われる瞬間を繰り返し味わうように、理不尽な暴力は心に、記憶に、重い澱を残すんじゃないだろうか。
歴史は繰り返すと言うけれど
繰り返させるほどのものを人が人の業によって生み出してきたからだろう。憎しみを断ち切るとか言う話は、やろうと思って誰もができるものでもないと僕は思う。
だからこそ
今、議論をすべき時じゃないだろうか。
これからの法・倫理・国防について。
新しい共通認識が必要で、新しいルールが必要だ。