ヒーローになるよりも
今日散歩していたら急に過去の自分の最低な行為をいくつか思い出した。
もう償うこともできないし、許してもらうなんてことはおこがましくさえあるような行為だと自分では感じています。
こんなふうに書いてしまうとどんなひどいことしたんだよ、
と思われるかもしれませんが、21世紀少年よろしく、
え、そんなことでこんなことになっちゃうの?
みたいな「そんなこと」が当人にとってはいつまでもいつまでも尾を引くような出来事として記憶に残ってしまう。そんなような種類の出来事があると僕は思っています。
なぜあの時にもっと優しくできなかったのか
なぜもっと愛情をもって接することができなかったのか
なぜもっと幸せな時間を過ごせるように努めることができなかったのか
どうしてあんなことをしてしまったのか
あんなことをされていったいどんな気持ちだっただろうか
どれほど傷ついただろうか
どれほど僕に失望しただろうか
どれほど嫌な思いをしただろうか
そんな記憶を抱えながら生きるのはどれほど辛いことだったろうか
悔やむというのは後からしかできないもんなんですね。
後から悔やんでも遅いのに。
でもほんとにすべての取り返しがつかないのだろうか?
勿論、そういうこともあると思います。
ただ、
これからの自分の振る舞いや、日々の行い、人に接する態度や、自分自身が関わるすべてに対する自分の態度を変えることはできると思うんです。
自分が大切にしたい人に優しくできるように
愛情をもって接することができるように
幸せな時間をいっしょに過ごせるように
自分の行いや態度を変えていくことはできるはずだと思うんです。
大切な人をいたずらに傷つけてしまわないように
何を大切にしていたいのかを忘れないように日々過ごすことはできるはずなんです。
大袈裟なことを言う癖が僕にはあるんですが。
人間なんてこんなもんだろう、っていう部分の社会の共通認識の底辺の値をもう少しみんなが下げて、なんとなく優しくゆるく繋がって生きていける社会になれないもんかなーと考えています。
人間なんて大したもんじゃないと僕は思うんですよ。
間違えるし、利己的だし、怠けるし、忘れるし、ずるはするし、嘘だってつくじゃないですか。誰だってそうだと思うんですよ。ある程度は。
今よりもそういう類のことに寛容な社会のほうが結果的にみんながみんな生きやすい社会になるんじゃないかなと思うんです。それに沿ったゆるい縛りは必要だと思いますけど、あくまで心理的な縛りとかでいいと思うんですよね。
すごい馬鹿みたいに簡単な根拠から言ってるんですけど、
「禁止は自発性を奪う」、って僕の勝手な憶測的根拠から言ってます。
自立、自発性が求められて久しいのでしょうけれど
それに必要なのは指示や命令ではないし、ましてや罰でもないと思います。
相互扶助とかの前にまずは各々が各々の時間を思い切り生きて人生を体感する必要があると思う。自分自身の心や体や時間の大切さが身に染みてわかった時に
はじめて他者を尊重することができるようになると思うから。
すごい話が脱線してしまった。そもそも何の話だこれは。
そして眠いので寝ます。