表に現れる者たち
僕の周りにはエゴイストたちがよく集まる。
昔から「人に嫌われたくない」を信条としていた僕は周りの空気をよく読むやつだった。
攻めか受けかで言ったら「受け」
肉か野菜かで言ったら「野菜」
男か女かで言ったら「女」
それが僕。
そんな僕はエゴイストたちを見て、勝手な奴らだと感じた。自分が世界の中心かのように振る舞い、したい事をする。
それが存外上手くいってしまうのだから憎らしい。
僕はポイ捨てもしなければ、老人には席を譲る。
しかし、良い事が起きるのは
周りに認められ注目されるのは常に彼らだ。
天命をいくら待っても、僕のターンは訪れない。
僕は彼らが嫌いだ。
僕は自分が嫌いだ。
僕の周りには才能たちがよく集まる。
大学のように様々な学科がある高校に通っていた事が理由か
はたまた、中学で圧倒的に鮮烈な何かを持つ男と出会った事が才能を見つける眼を養ったのか
僕の周りには才能と呼ばれるモノを有している者が多くいた。
作曲、
芸術、
演技、
演奏、
執筆、
スピーチ、
僕の目に映る彼らは
注目はされど、理解はされていなかった。
称賛はされど、共感はされていなかった。
作曲家の彼は言った。
「馬鹿ばっかりだ」
デザイナーの彼女は言った。
「全然足りない」
役者の彼女は言った。
「もっと早くから始めればよかった」
小説家の彼は言った。
「きっと俺は長くは生きない」
才能を持っている者たちは
等しく孤独の海にあり、
それでもほんの1ミリでも深い理解を求めて
命を削っている。
才能とは何だろう。
僕には何の才能があるんだろう。
僕は何者なんだろう。
あぁ、僕は自分が嫌いだ。
僕の周りには表現者たちがよく集まる。
表現者たちが魅せる世界は
そのどれもが実に芳しい革新的な香りを孕んでいる。
彼らの表現に懸けた
思考、熱量、エゴ、命
の息吹を心身で受け取った時
魂が震えるのを感じる。
それは鳥肌となって僕の表面に現れる。
彼らに対する理解も共感も
真の意味では為されることはない。
であるのならば、僕が感じるこの魂震いも
紛い物なのか。
まだ足りないのか。
表現者たちとはよく酒を酌み交わす。
乾杯は寄り添いだ。
人は一人では生きていけない。
そんな当たり前は
どれだけエゴイストで才能溢れる表現者たちであっても例外ではないのだ。
そんな心温まる事実に僕は安心と誇らしさを感じてしまう。
まだ出会った事がない才能たちが
僕を介して繋がっているんだ。
もしかしたら、未来
僕はもっとスゴイ何かに心震わせられるんじゃないだろうか。
突出したマイノリティである
彼らのガラスのグラスが砕けてしまわぬよう
慎重にグラスを寄り添わせる。
そう。
これはまるで「人」そのものだ。
僕の周りには表に現れる者たちがよく集まる。
僕は少し自分を好きになった。