『煌(ひかり)の天空〜蒼の召喚少年と白きヴァルファンス』 第8話 ムース(ツノが立つ方じゃなく生えてる方)との遭遇
森見蒼仁の朝は早い。
「お母さん、弁当できた?」
「あんたほんとに塾に行く気なの?」
母は呆れ顔だ。
「あんなこと」があった翌日、しかも今日は午後までガッツリ模試を受ける予定なのだ。
「今日は休んで後日受験にしたら?」
「そしたら順位下がっちゃうじゃん」
蒼仁はこれでも、全国規模の中学受験塾でいわゆる成績上位陣に属している。
模試の順位が下がれば塾の席順も後ろに下がり、成績表の表紙に名前が乗らなくなる。モチベーション低下が甚だしいのだ。
「でも、もしまた昨日みたいなことが起きたら……」
と不安そうな母に代わり、シェディスが
「私が行く! 帰りも迎えに行く!」と名乗り出た。
見えないしっぽがピチピチと振られているような気がする。
この場合、送ってもらうというより「散歩に連れて行く」感がなくもないが。
ちなみにシェディスの服は、パジャマに引き続き母親からの借り物だ。淡いベージュのパーカーに黒のスキニージーンズ。
背丈が高めですらりとした体型なので、たぶん何を着ても似合う。
「そうね……、シェディスさんが一緒なら安心ね」という、母親からの鉄壁の信頼を得て、ボディーガードという名の番犬ポジションを確立したシェディスだった。
「そう言えば、昨日はうちに泊まったけど、シェディスってどこに寝泊まりしてんの?」
道すがら尋ねると、
「僕のトゥルーフレンドのおうちにごやっかいになりますので、ご心配なく〜」と、ハムハムしたお返事。
シェディスの頭の上に、グレーとゴールドの混じった毛玉がピョイッと飛び乗った。
「いたのか、本体」
「実はずーっときみのそばにいました。PCの影に隠れてました。きみや妹さんに見つかると、おもちゃにされそうな危険な予感がしたもので。てへっ☆」
確かにおもちゃにしたくなる外見である。勉強しながら片手でにぎにぎもぎゅもぎゅすれば、癒しとマッサージ効果を得られる気がする。
それにしても、いつから部屋に潜伏していたのか。
ずっと蒼仁の寝顔を眺め回しながら、勝手にPCをあれこれいじり倒していたわけか。
この場合、警察に不法侵入で通報するのと、動物愛護センターへ野良ハムとして突き出すの、どっちがいいのだろう。
などと、模試とはまったく関係ない思考に脳が遊んでしまった蒼仁は、塾に到着し、二人(二匹)と別れてひとり校舎内に入ったところで気持ちを切り替え、引き締めた。
少子化が進もうと、世界が大不況に見舞われようと、極北から白夜が消えようと、「難関中学合格」が厳しい現実は変わらない。
「何かを身につけないと生き残れない」厳しい社会は加速していくだろう。
自分は目の前の「受験勉強」、「中学受験模試」に全力投入するだけだ。
入試本番まで九ヶ月を切った。この先何が起ころうと、それを理由に立ち止まってるヒマなんてあるはずがない。
今年度の社会・理科はカナダでの太陽光消失を受けて、気候変動や極北に関わる問題が増えるのは間違いない。
昨年度、さっそくオーロラ発生の原理に触れてきた学校もある。
今年度は世界の海流か、北国の気候や資源か、環境への取り組みか。
何が来ても、確実に撃破するのみ。自分なら、できる。
あの激流で、あの雪嵐で生き残る確率に比べたら、難関中合格の方がずっと簡単に決まってる。
と、ブレない決意を胸に、模試の会場となる教室のドアを開けると。
そこはすでに、「白」以外何も見えなかった。
嵐が吹き荒れる、豪雪地帯だった。
◇ ◇ ◇
――塾の扉を抜けると雪国であった――
一秒後にドアを閉めると、後ろから塾のスタッフが声をかけてきた。
「蒼仁くん、どうしたの? 試験の教室そこであってるよ。入りなよ」
いや、豪雪サバイバル試験だなんて聞いてないよ。
このドアを「ど〇でも〇ア」にリフォームしたなんて話も聞いてないよ。
ドアの前で固まってると、スタッフがご親切にもにこやかな笑顔でドアを全開にしてくれた。
当然、校舎内まで嵐が吹き荒れる。
蒼仁も受付を飾る観葉植物も、これから配られる試験問題も、先生方が頑張って採点したはずの生徒のノート類も、その他色んなものがすべて吹き飛んでしまう。
飛んでくる椅子を避けながら、まだかろうじて無事なキャビネットにしがみつく。
キャビネットの扉が開いて、中の過去問冊子までバサバサと飛んで行ってしまった。まだ見たい過去問たくさんあるのに!
「シェ……シェディスーッ!!」
何とかしてくれそうなただひとつの存在を思い出し、嵐に叩かれる顔で懸命に叫ぶ。
轟音の中に、聞き慣れない別の音が混じり始めた。
シェディスが来た?
それにしては、なんというか、こう……
あえて表記するなら、「ブブオォッ! ボグッ!」とでもなりそうな音。
違う、シェディス登場の効果音と違う。
ヌボオォォ……とでも聞こえてきそうな動きとともに、巨大な黒い影が現れた。
蒼仁の目線よりかなり上で、生暖かい、湿った息が噴き出している。
横幅約二メートルもある巨大な武器を、頭上に掲げた黒い巨体。
こんなにも巨大な生物が自分の目の前にいることが、とても信じられない。
ムースだった。デザートではなく、ヘラジカの方の。
「狼の次はムースかよッ! 日本はどーなってんだー!」
という蒼仁の心の声は、もちろん誰にも聞こえない。
しかもこのムース、かなり気が立っている。
血走った眼で、巨大な鼻先を突き出し、鼻息荒く威嚇してくる。明らかに蒼仁に向けてガンつけている。蒼仁が何をしたというのか。
草食動物は人間を襲わないはず。
いや、それを言ったら狼たちも本来は人間を襲わない。
ゾウやカバなど、巨大かつ危険な草食動物はたくさんいる。ヘラジカもその一種だ。
先端が三十にも分かれているという、巨大な角。あれに突かれたら致命傷になりかねない。
野生の狼の群れも、オスのヘラジカを相手取ることはせず、メスや弱い個体を狙うのが普通だ。
それだけ敵に回すと危険な草食獣が、今、蒼仁の目の前にいる。教室の床に、ガッガッと音を立ててヒヅメを鳴らしている。
そのヒヅメが床を蹴り、前方へ飛び出した!
ぶつかる!
やられる!
そう思った時にはもう、蒼仁の体は宙に浮いていた。
少し離れた場所までひらりと飛び、足から綺麗に着地。
下ろしてくれたのは、シェディスだった。
「また空が真っ黒になったんだ。『煌界』から迷い込んじゃったのか、それとも」
「彼らに、他の種族まで操る力があるのかもしれませんねぇ」
蒼仁の前に颯爽と立ちふさがるシェディスと、蒼仁のシャツの胸ポケットに颯爽と転がり込むハム。
今になって気づいたが、シェディスの言う通り、外の空一面が真っ黒になっていた。
ハムの話が本当なら、精霊たちの世界「煌界」から、動物霊が「闇のオーロラ」を通じて地上へ襲来したということになる。
空高くうごめく闇の光。
世界を封じ込めようとする猛烈な吹雪。
激しく動いてもどこにもぶつかる様子のない、横幅約二メートルのヘラジカの両角。
もう、ここが塾の校舎だとは思わない方がよさそうだ。
「アオト、武器を!」
「えっ! あっ、わっわかった!」
って、昨日はどうやったっけ!?
頭では慌てつつも、蒼仁の両腕は、自然に一日前と同じ動きを追っていた。
空を覆う、不気味な黒い躍動に手を伸ばす。
靄の一部が切り裂かれ、一筋の白い光が一直線に伸びてくる。
蒼仁が手を動かすと、周囲に氷と光が集まってひとつの新しい形を生成する。
「――『天空』!」
今日は中二病セリフはナシだ。
その一言で、シェディスの武器、氷結棒が出現した。
その、一秒にも満たない瞬間に。蒼仁の脳はまた、新たな情報を受信した。
――黒い、大きな獣。
牙をむき、とんでもない速さで接近してくる!
「シェディス!」
見たイメージを伝えようとする前に、シェディスが蒼仁の手元から棒をつかみ取り、前へ出た。
巨大な角を武器として、まっすぐに突き出しながら走り出すヘラジカ。
激突の時が迫る!
ガツッ! と激しい音が響く。火花を散らすが如く、武器と武器とがぶつかった。
シェディスは両腕で横一文字にロッドをかざし、八百キロの体重を乗せて繰り出された衝突を受け止めた。
細い棒と巨大な角。パワーとパワーの対決。
シェディスの細い手足が震え出した。相手の熱い息を浴びながら、今にも押し負けてしまいそうだ。
「ウグッ!」
ついにシェディスがバランスを崩し、後方へと倒れ込んだ。
さらに突こうと繰り出された角を、瞬時に身を捻って避ける。剣先のような角が、ガッガッと何度も休みなくシェディスに襲いかかる。その度に、素速い身のこなしで何度もかわす。
「シェディスッ!」
助けるすべも持たずに、思わず蒼仁が手を伸ばそうとしたとき。
彼よりも速く、一陣の黒い突風が対決の場へと接近した。
風は迷うことなくヘラジカの前足の腱へ飛びかかった。
鋭い牙を突き立て、そのまま咬み砕く勢いで容赦なき一撃を刻み込む。
新たな敵を吹き飛ばそうと、ヘラジカが大きく暴れる。
シェディスは棒を片手に持ち替え、再び蒼仁を抱えて軽く跳躍し、距離をとった。
ヘラジカの前足に埋め込まれた牙は離れない。
暴れるたびに細長い体が振り回されても、決して外さない。
狼が持つ、驚異の咬合力(咬む力)。
現れた個体は狼だった。
黒銀の毛並みを持つ、全身の筋肉が引き締まった力強い狼だった。
「あれは、人間たちに『ウィンズレイ』と呼ばれている狼です」
蒼仁の胸ポケットから顔だけを出したハムが、神妙そうな顔で眼鏡をくいっと上げた。
「シェディスと同じ父親の血を引く、いわば異母兄妹です。なぜ、こんなところに」
狼の牙が、ついに腱を砕いた。
ヘラジカはなすすべもなく、その場にドウッと横倒しに倒れ込んだ。
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