『煌(ひかり)の天空〜蒼の召喚少年と白きヴァルファンス』 第23話 空を焦がす炎
ホワイトホースを出発した犬ぞり隊「チーム蒼仁」は、初日からいきなり予想外の脅威に遭遇した。
野生狼の群れ。
以前なら多くの専門家やハンターたちが予測できた事態も、連日ブリザードが吹き荒れる現在は察知が難しくなっている。
折賀が猟銃による威嚇を始めてまもなく、そり犬たちのリーダー犬・ゲイルとブレイズが吠えた。遠吠えで、飢えた狼たちを遠ざけることに成功した。誰もが心の底から安堵した瞬間だった。
――野生動物の洗礼を受け、現在。
チームは無事、初日のキャンプ目標地点へと到達した。
事前に折賀と地元の協力者たちとで目星を付けておいたポイントだ。針葉樹林の中、できるだけ暴風をしのげる場所を選んである。
キャンプ地に到着し、まずすべきことは犬たちの世話だ。
折賀と達月が斧で枯れ木を切り倒し、薪を手に入れる。火を起こし、雪をすくって鍋に入れ、湯を沸かす。犬たちのドッグフードに適量の湯を含ませる。水を与えるとすぐに凍ってしまうので、こうして餌に混ぜ込んで水分を与えるのだ。
シェディスと蒼仁は、犬たち一頭一頭に声をかけながら犬用の靴を脱がせ、怪我や不調がないかを念入りにチェックする。
全頭に防寒着を着せて、持参の藁を敷いて犬たちの寝床を作る。
すべての犬に気を配り、そりをここまで運んできてくれたことに感謝する。
犬たちの食事風景を眺めながら、蒼仁はマッシャーたちから聞いた話を思い出した。
スノーモービルや雪上トラックは、故障やガス欠で動かなくなればそれまでだ。そのために命を落とす者も多い。
犬ぞりは、時間はかかるが必ず家へと帰してくれるのだという。
ここでは、人間が犬たちのおかげで生きている。
人間の都合で動いてもらう点はペットと同じだが、人間の感情を満足させるためだけに支配するような関係ではない。人と動物、それぞれが個々の能力を活かし、替えの効かない重要な役割を担っている。人にとって、かけがえのないビジネスパートナー、戦友なのだ。
犬たちが藁の上で寝転び始めると、ようやく人間たちの晩餐が訪れる。
「ほんまに全部ガチガチやー。凶器や」
と、達月が面白そうに取り出したのは本日のメニュー、チキンと野菜のリゾット――が、凍って板状になった物。運ぶ間に冷凍されてしまった。天然の急速冷凍食品である。
料理はマッシャーたちのアドバイスを受けながらみんなで用意した。もちろん達月も調理に参戦、ハムも味見に参戦。氷漬けリゾットが、フライパンの中で温かな湯気を立て始める。
「スパゲッティの食品サンプルもあっという間に作れるやろなあ、あのフォークが浮いてるやつ」
「もごもご、早く食べないと、ごっきゅん、冷めちゃいますよ!」
「風強くなってきた! ソースが葛飾北斎画の波(『冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏)』みたいになってる!」
「ハム、フライパンに落ちるなや! ハム野菜リゾットにするで!」
「プクプク、シェディスちゃん、ウィンズレイに風起こすのやめさせてくださーい!」
「ウィンズレイやめろー!」
知らぬ間に強風の責任を負わされるウィンズレイも気の毒だが、不思議と思ったほどには寒さを感じなかった。
みんなで囲む、素朴でにぎやかなキャンプファイヤー。みんなの顔をオレンジ色に染め上げる炎。
極寒の辺境なのに。相変わらず空は黒く、風が猛威を振るっているのに。
みんなと一緒にいることが、こんなにも心強く、暖かい。
蒼仁はみんなの顔を見回した。
すっかり寝静まった犬たちが多い中、ゲイルとブレイスは静かに炎を見つめている。
昨年の夏を思い出した。
果てなく流れ続けるユーコンのそばで、父とブレンが食事の支度をしていた。手伝おうとする蒼仁の足に、ゲイルとブレイズが無邪気にまとわりつく。
すべてを「闇のオーロラ」が洗い流した。
蒼仁も、ゲイルとブレイズもあの時とは顔つきが変わった。あまりに多くの試練を経験した。
闇を赤く染める炎は、自分たちに希望をもたらしてくれるだろうか。
◇ ◇ ◇
マイナス四十度まで耐えられるという寝袋は、前評判に違わず暖かかった。
自分の吐く息が凍りつき、顔の周辺が真っ白になってしまったが、この環境で蒼仁を熟睡させてくれるありがたいアイテムだ。
蒼仁の睡眠を破ったのは、犬たちの吠え声だった。
何事かと起き上がると、折賀が既に猟銃を構えている。
銃口の先は闇。依然として太陽の昇らない世界で、木々の隙間から視認できない獣たちの獰猛な息遣いが伝わってきた。
昨日追いかけてきた野生の狼とは違う。一帯にまとわりつくような得体の知れない空気は、「この世のものならざる異形」に特有の、熱を持たない存在のもの。
蒼仁は空を見た。天を突くほどに高くそびえる針葉樹林の上に、不気味に蠢くうねりがある。そこから降り落ちる無数の粒子が、地上に狼の輪郭を作り始めた。
「――霊狼!」
「出番だ、蒼仁」
構えを解かず、視線を外さないまま折賀が呼んだ。
霊狼に銃は通じないが、この機に他の野生動物が襲って来ないとも限らない。警戒を解く気は毛頭ない。
吹雪の勢いが増す。
自分たちが吹き飛ばされるより先に決着をつける。蒼仁は仲間たちの気配を感じながら、前方に右手を伸ばし、静かに詠じた。
「『天空』、『光架』」
シェディスが氷結の棒を、達月が太陽球を構える。
氷の結晶と太陽光が視界を照らす中、折賀は闇から目をそらさずに目算した。
「現時点で、おそらく五十頭以上――まだ増え続けるぞ。行けるか」
「さすが、本場モンはわけが違いますなあ」
不敵に笑みを浮かべる達月の、手の上にある光球が膨張した。敵数に合わせてサイズを変えるつもりなのだ。
風向きが変わった。敵陣から見て追い風。先頭の霊狼が一声高らかに吠え、それを合図に猛攻が始まった!
「シェディス、打て!」
風に乗り急速に距離を詰める霊狼の群れ。
蒼仁が叫ぶと、シェディスは心得たように棒を構え直した。
膨張を続ける達月の光球がバスケットボールよりも大きくなった。棒もそれに合わせて光の幅が広がり、サイズを拡大させる。
「行くで!」
達月はシェディスと目を合わせると、巨大な火の玉と化した光球を宙に放った。
シェディスが上半身をひねり上げる。
「いっけーーーー!!」
凄まじい快音が響いた。打ち上げられた球が、速度を得てぐんぐん空に昇っていく。
「さすがシェディスさん! これなら数が多くてもいっぺんに――」
と言いかけた達月の顔がこわばった。
凄まじい突風が、上空で球を吹き飛ばしてしまったのだ。
「んなあほな!」
自然の猛威を前に、大精霊の力がいなされてしまった。
自分たちも吹き飛ばされそうになり、必死に周辺の木や岩にしがみつく。
その間に、風の影響を受けない霊狼の群れが突進した。
岩を越え雪をも越えて、細長い肢体が彼らの頭上を跳び抜ける。
「来いッ!」
シェディスが走り込み、蒼仁と達月の前で棒を躍らせた。
勇猛果敢に回転数を上げ、自らを中心に凄まじい嵐を起こす。何頭もの霊狼が宙に飛ばされては粒子となって飛散する。
が、霊狼は尽きることなく次から次へとやってくる。
達月は休みなく次の球を生み出した。さっきよりは小さな球を、両手に持てる限りの数を作り、再び投げ上げる。波状攻撃を少しでも止めるべく、何度も何度も投げ上げる。
達月の力で記憶を操作された霊狼は、戦列から離れて空へと還っていく。
それでも空から降り落ちる粒子は止まらない。何頭吹き飛ばし、何頭記憶を操作しても、新しい霊狼が続々と地上に出現する。
このままでは、こっちの力が尽きる。どうすれば。
他に何か手はないかと、蒼仁は周囲を見回した。
吹雪でだいぶ散らばってしまったが、犬たちは伏せの姿勢で風と霊狼の猛攻に耐えている。折賀も猟銃を構えて地に伏せたまま、犬たちを守るためにあらゆる脅威への警戒を続けている。
ふと、目が合った。
吹雪に全身をなぶられながら、燃えるような二対の瞳で蒼仁に視線を返す、二頭の獣。
「ゲイル、ブレイズ……!」
蒼仁は目を見はった。二頭は普通の、カナダの狼犬だったはずだ。
それなのに、この神がかったような気高さは一体何だろう。
二頭が吠えた。
全身の毛を立てて、咆哮がビリビリと空気を振動させる。
ゲイルが吠えると、風がやんだ。正確に言うと、風が軌道を変え、まるで迂回したかのように彼らを避けて通り過ぎていく。
ブレイズが吠えると、とっくに消えていたはずのキャンプファイヤーの炎が、突然増大し、天に向かって急激に炎の渦を伸ばし始めた。
炎は空へ昇る。周囲の木々へ燃え移ることもなく、ただ空だけに火柱を走らせる。
空が、燃えた。
炎の強大な力が、空の「闇のオーロラ」に手を伸ばし、燃やし尽くし、煙のように消し去ってしまった。
分厚く空を覆っていた黒い靄が晴れ、本来の空の色が現れる。
極北に、本物の夜空が訪れたのだ。
「す、凄い……炎の力で、みんな燃やしちゃいました。凄いです……」
蒼仁の襟元のハムが、語彙力を飛ばされたまま懸命にレポートしている。
「うん。あれは『双焔』だ。二頭は大精霊の申し子、『双焔の霊狼』だったんだ」
蒼仁の前で、果敢に強敵を打ち破った二頭は――
あくびをすると、強風で転がっていた藁を鼻先でもそもそと敷き直し、その上に身体を投げ出して寝てしまった。
極北全土には、依然として巨大なオーロラが闇を落としている。
この日、彼らは、ほんの一部ではあるが本物の空を取り戻すことに成功した。
ウィンズレイがいる地は、まだはるか北。
彼ら犬ぞり隊の、厳冬の旅は続く。