『煌(ひかり)の天空〜蒼の召喚少年と白きヴァルファンス』 第9話 黒銀の狼王
ヘラジカが倒れ込む瞬間、黒銀の狼「ウィンズレイ」は牙を離して身をひるがえし、三メートルほど離れた地点へ着地した。巨体の下敷きになるのを避けるためだ。
敵に背は見せない。着地と同時に向き直り、倒れた獲物を鋭い視線で見定める。
なんとか立ちあがろうと声を上げてもがくヘラジカの周囲を、タイミングをはかりながら、時に慎重に、時に俊敏に移動する。
――タイミングが定まった。
まさに電光石火!
角の攻撃が届かない絶妙な角度で、巨体の懐に入り込んだ黒銀色の肉食獣。
鋭い牙が、今度は喉笛に容赦なく突き立てられた。
一度喰いつけばもう、離さない。
驚異の咬合力を、その場の誰もが知っている。
獲物の眼球に血が走る。悲痛な叫びがただならぬ呼吸音へと移り、その音も徐々に弱まっていく。力の限りに暴れていた脚が、全身の筋肉が、力を失ってだらりと垂れ下がる。
勝負はついた。
蒼仁が今までに見たことのある、どんな動物の動画やテレビ番組よりも、明白な瞬間だった。
蒼仁にとって、あまりに遠い場所にある、自然界の戦いの決着だった。
動物番組ならこの後、捕食者たちが首を突き合わせて獲物をむさぼるシーンに入るわけだが、そうはならなかった。
絶命したヘラジカは、そのまま黒い靄となって、風に吹かれたように流れて消えた。
生きてその場に残ったのは、黒銀の毛並みと金色の瞳。
堂々と背を伸ばし蒼仁たちに向き直ったのは、激闘を勝ち抜いたばかりの誇り高き勝利者。
通常なら群れでも仕留めるのが難しい八百キロ級の雄ヘラジカを、たった一頭で仕留めたのだ。
何者にも屈しない高潔さが、引き締まった全身からみなぎるようだ。
格が、違う。
野生生物に対してまだ見識の浅い蒼仁も、本能で感じとった。
この狼には、勝てない。
ウィンズレイは、しばらく蒼仁たちの方を見つめたあと、背を向けて歩き出した。
凍った大地を一歩一歩、力強く踏みしめるように。
戦いの終了を告げるように、嵐がやんだ。
最後の一風が白い光を散らしながら消える頃、黒銀の後ろ姿もまた、跡形もなく消えていた。
「…………」
その跡を、残像を追いかけるようにじっと見つめながら、シェディスは何か言いたげに口を動かした。
「……何?」
蒼仁が問うと、シェディスの濃紺の瞳が揺らぎ、ためらいながら小さな声が漏れた。
「『お前もこっちへ来い』、って……」
「こっち……?」
「私の前から消えたのは、あいつの方なのに……」
意味を考えるより先に。
まぶしさに、視界が支配される。
世界が、白い光に包まれた。
◇ ◇ ◇
何のことはない、見慣れた蛍光灯の光である。
世界は塾の校舎へと戻る。
嵐もヘラジカも狼も、何もなかった。
わかってる、わかってます。
蒼仁もさすがに学習した。
模試の問題用紙は、当然のようにちゃんとそこにあるのだ。
まだかじかんでる両手をさすりながら、座り慣れた最前列の席に着く。
やがて、担当職員が問題冊子の束を持って現れた。
この教室で模試を受けるのは、これが最後。次回からは外部会場で受けることになっている。
蒼仁の厳しい戦いは、これからなのだ。
◇ ◇ ◇
「体積比は完璧に出せたのに、あとは表面積を合計するだけだったのに……時間が足りなかった……」
蒼仁が半分屍になりながら、公園のベンチでブツブツ言っている。
模試の算数で、正解できたはずの問題をひとつ落とした事実に凹んでいる。
その横で、シェディスも同じように凹んでいた。
「くぅん……私じゃダメだったー。アオトを守れなかったよー。あいつが来なかったらやられるとこだったー」
「ま~ま~」
ハムが二人を見比べながら、どっちから先に元気づけようかと思案中。
そこへ、何やら大きなバッグを抱えたパーシャがやってきた。
「あなたが落とした設問は、正答率十パーセント以下。そんな難問ひとつを落としたことよりも、それ以外を正解できたことを誇ればいいじゃない」
「なんでそんなことがわかるんだよ。もしかして、それも『見えた』わけ?」
「そうよ。ズルしたくないから、自分の試験前に問題や答えが見えた場合はその試験を受けないことにしてる。あなたが凹んでるとシェディスまで落ち込むから、とりあえずこれでも食べとけば?」
言いながらバッグから取り出したランチボックスには、イチゴが乗ったマフィンが四つ詰められている。そのうちの一個には骨型のクッキーまで乗っている。ハム、大興奮。
「ふおぉっ! もっもしかしてパーシャさんの手作りですかっ!」
「ここで二人が落ち込んでるような気がしたから作ってみただけ。味は保証しないけど。あ、シェディスの分だけ保証しとくわ。この骨が乗ってるやつ。犬用に、牛乳や砂糖を入れずに作ってあるから」
「わー、くれるの! ありがとー!」
シェディスは秒で立ち直った。
雪白の髪のスレンダー美少女が、金髪の年下(に見える)美少女におやつをもらってもふもふっと幸せそうに食べている図は、誰が見てもまぶしく微笑ましく思えるに違いない。一応、人間らしく手を使って食べてるし。
蒼仁もちょっとほっこりしたので凹んでいた空気を振り払い、ありがたくマフィンをいただくことにした。
ハムも、小さな体でもふもふっと完食した。ハムのどこにマフィン一個分の胃袋があるのかは不明だ。
「蒼仁くんは、えらいですよ。あんなことがあった直後にきっちり意識を切り替えられたんですから。まだ十一歳なら十分、上出来です」
「それじゃ、ダメなんだよ……」
ハムの励ましの言葉に、自嘲気味な蒼仁の答えが続く。
「昨日今日と、動物相手に戦ってみてわかった。『子供だから力不足でも仕方ない』なんて、野生の世界では通用しない。むしろ子供は、真っ先に狩られる対象だろ。俺は、子供でもちゃんと戦える力をつけたいんだ」
シェディスの頭の上に乗っているハムに、蒼仁は真剣に向き合った。思いが、怒涛のように蒼仁の中からあふれ出てくる。
「ハム、精霊の声を聞くシャーマンなら知ってるよね。今日のことは、シェディスが弱いんじゃなくて、俺の弱さが原因だと思う。どうすれば強くなれるのか、教えてほしい」
「蒼仁くん……?」
蒼仁を除く全員が、目を丸くした。
「まだ十分に説明してないのに、きみ、そんなことまで……」
「シェディスの武器を召喚ぶとき、たぶん俺も精霊の意思みたいなものを聞いたんだ。俺は、あの力で『煌界』からやってくる動物霊たちに立ち向かわなきゃならない。そうしないと、世界がさらに闇に包まれて、飲み込まれてしまう。でも、今のままじゃダメなんだ」
「アオト、アオトは弱くないよ」
シェディスの声には応えずに、精いっぱいの思いを込めた蒼仁の言葉が続く。
「それに。俺、シェディスを『あっち』に行かせたくない」
蒼仁の脳裏には、シェディスから聞いた「ウィンズレイの意思」が浮かんでいた。
(『お前もこっちへ来い』)
それが、ウィンズレイの意思。
「ウィンズレイは、シェディスを『煌界』へ連れて行こうとしてる」
それは、シェディスも煌界へ渡るということ。
行ってしまったら、シェディスも、ほかの霊狼たちのようにおかしくなってしまうかもしれない。自分に牙をむく時が、来るかもしれない。
「今日は敵対したわけじゃなく、むしろ俺たちを助けたわけだけど……俺、あいつが俺たちの味方になるとは思えない」
黒い獣は、白い獣の異母兄妹だ。
まだ小さかったシェディスを、あの狼はそばで守ってきた。そのイメージを、蒼仁も見た。
そして、あの狼のまごうことなき野性も。
シェディスと違い、人に近づくようにはとても見えなかった。
「そうですね。ウィンズレイは生粋の狼。犬の血を継いでいるシェディスちゃんとは、違うと思います」
ハムは真面目な口調で黒ぶち眼鏡をくいっと上げた。
「彼らの父親は、カナダのユーコン流域から北極圏にかけて広大な土地一帯を統べる、群れのアルファ個体――わかりやすく言えば、狼たちの王だったんです。でも去年の夏、行方不明になってしまった。ウィンズレイはまだ若いため、今は別の個体に王の座を渡していますが、じきに自分のものとするでしょう。間違いなく、彼が次の狼王になります」
「去年の夏? それって……」
また、あの日の――太陽光消失の日の光景が、フラッシュバックする。
あの時、ユーコン川に飲まれるよりも前、蒼仁は確かに聞いた。
無数の狼たちの遠吠えを。
「そうです。あの日に、狼たちの王に何かが起きたのかもしれません。
僕は現地で、すっかり怯えて生きるようになった動物たちの声を聞き、調査を続けてきました。今も、仲間が現地で調査を続行してくれています。
消えた『前狼王』。闇のオーロラ。きみが大精霊から渡された、『武器召喚能力』。『霊狼』。次期狼王、『ウィンズレイ』。このどこかに、謎を解く鍵がありそうですね」
「――私は、いつか、ウィンズレイと戦うんだろうか」
シェディスは、犬耳があったらしゅんと垂れ下がりそうな様子でうなだれている。
ハムは、自分の足場、すなわちシェディスの頭をハム前足で優しくハムハム撫でた後、話を続けた。
「今日わかったのは、彼が生きたまま『闇のオーロラ』を渡ることができる狼だということです。シェディスちゃんを手に入れるために、また現れる可能性はあります。ひょっとしたら、霊狼たちの群れに蒼仁くんを襲わせるぐらいのことも、できるのかもしれません」
「私はアオトを助ける! もしアオトを襲うなら、私がウィンズレイと戦う! でも、あいつは強い。今のままじゃ勝てないよ」
「生粋の狼の牙相手に、慣れない人の姿で慣れない武器を使うんだから、敵わなくても当然だと思うけど」
横からパーシャが言葉を添えた。
「でも、その姿・その武器で戦うことに、必ず何かの意味がある。私の『探知能力』と『予知能力』が示しているんだから、間違いないわ」
その言葉を聞いた蒼仁は、ベンチから腰を上げて、力強く立ち上がった。
「きっとそうだ。となると、霊狼だろうがウィンズレイだろうがムースだろうが、俺たちがやるべきことは同じ。
シェディス、特訓しよう!」
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