晴れた日の午後に見たささやかだけれど絶対的な後ずさり
曽我部恵一BANDの「オレと彼女が晴れた日の午後に笑うささやかだけれど絶対的な理由 姉編」と題されたミュージックビデオで、市川実日子さんが朗読する短編小説のような文章のなかに、つぎのような一文がある。
このなかにある「後ろむきに後ずさりでもするかのように入ってくる」というのが、どんな動きなんだろうと、ずっとひっかかっていたのだが、ついに目撃したのだ。後ろむきに後ずさりしながら店を出ていく瞬間を。入るときでなく、出るときなのが惜しかった。
最近よく行く食堂がある。近くに最寄り駅も駐車場もない、辺鄙なところにあるにもかかわらず、お昼のピークの時間帯には座れないこともある。
人気の理由は、手頃な値段もあるだろうが、昭和の大衆食堂の雰囲気にひかれてやってくる客が多いのではないだろうか。厨房の壁のタイルには、火の用心ならぬ「火迺要慎」と書かれた御札があるのだが、いつからそこに貼られているのか、陽に焼けて、使いこまれた杉板のような色をしている。
その日も、晴れた日の午後だった。昼休みが終わったころに引き戸をあけると、四台のテーブルが埋まり、残りの二台にも前の客の食べ終わった皿が置いたままになっていた。いらっしゃいませ。厨房から店主の奥さんのよく通る声が聞こえたが、顔は見えない。急いでいるわけでもなかったので、私は皿が残ったままの空席に座り、文庫本を読みながら気長に待つことにした。
しばらくすると、見慣れた奥さんの細い腕ではない、がっしりした男性の腕がニョキッと伸びてきた。本に落としていた視線をあげると、見慣れない男性が皿を下げて、濡れたふきんでテーブルを拭いていた。店内を見回すと、奥のテーブルで食べていた若い夫婦が片付けを手伝っていたのだ。女性にいたっては、厨房で皿を洗っていた。すっかりとけこみなんの違和感もない。
しばらくして、奥さんが料理をはこんできた。頼んだのは、店名を冠した丼で、炭火で焼いた ── たぶんそうだと思う ── 鶏肉がごろんとのっている。山椒がきいた鶏肉を噛みしめていると、奥さんの高い声が店内に響いた。
あかんて、バイトしてもらったようなもんやから。どうやら手伝いのお礼を渡そうとしているようだが、いいんです、いいんです、と若い夫婦はその申し出をかたくなに断り、腰を折った伊勢海老のようなかっこうで、猫背に丸まり、後ずさりしながらそのまま、勝手口から姿を消したのだ。
市川実日子さんの声が脳内再生される。「後ずさり」だ!
帰りがけに奥さんに声をかけると、甥っ子なんです、と照れ笑い。ますますこの店が好きになった。
年が明けてからふらっと入って一目惚れし、すでに五回目。しばらく通いそうです。《鶏泉》という名前の通り、鶏料理のラインナップがすばらしく、記事に登場した鶏泉丼、酢豚ならぬ酢鶏、さくさくの唐揚げなど、どれもおいしかったです。