アウトプットは適当でも構わない

ところで、日本人はなぜ発信をアウトプットと言い、受信をインプットと言うカタカナ用語を使うのだろう。

他にもインプレッションとか、エビデンスとか色々ある。

これは専門用語的に機能するような一方で、英語だしなんとなくニュアンスで伝わってくれたら嬉しい的な感じでカタカナ英語のようなものを使うんじゃないかと思う。

そうだね、ニュアンスとかも雰囲気的な意味で使ってしまったけれどこんな感じに察して欲しいわけなのです。

ただ日本語でアウトプットを発信というとそれはそれでしっくり来ない何かがやってくることもあるんじゃないだろうか。

自分の中でしっくりこないから、僕はアウトプットと言う言葉を積極的に使うようにする。と言う方もいると思う。

そうすると今度は、世間が許さない。

専門用語を使う人は頭が悪いだの、もっと分かりやすい説明キボンヌとか言い出すわけです。

こんなことなら結局僕は言葉というものは曖昧でもいいと考えてしまうのです。

読解力のない相手には「的確な言葉を並べても伝わらない」というのはSNSが証明してる。

そして、人間のコミュニケーションなんて言葉なんかよりも行動なんかで分かり合えたりすることもあるんだし、言葉の信憑性を信じ切るのは僕はそんなに好きじゃない。

という感じで、世の中のアウトプットは雑でも良く、曖昧でも良く、だけどせめて読めるレベルは抑えておくラインを狙うのが大事なのだと思う。

一方で、適当や雑や曖昧というふにゃふにゃした概念は今までの自分が努力してきた土台があるからこそ上手く機能することを忘れてはいけない。

僕にとっての適当というのは、底上げされたものであって、何も考えてないことじゃあない。

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