生きること。
「人はなぜ生きるのか?」
「生きる意味は?」
なんてことを一度でも考えた人は多いのではないだろうか?
大昔から哲学者、思想家、小説家の一大テーマでもあると思うし、私も物心ついた頃から、「なんで生きなきゃいけないんだろう?」と考えることが多かった。その答えを知りたくて、多くの本を読み漁ったとも言える。
絵本はメタファーの代表的なもので、その中には道徳心や正義感を養う要素などが沢山含まれている。つまり、”こんな人間になりなさいよ。ならないとこんな結果が、待ち受けているよ”と言う、軽く脅し要素も入れて作られているものが多い。でも、自分の周りを見渡す限り、現実の世界は絵本のようには進んでいない。それどころか、真逆に生きている人たちの方が多いのではないか?と、成長期になるにつれ感じることが多くなり、”まぁ、子供はまだ未熟なので仕方ないとしても、手本となる大人がこれじゃぁ、どうなんだろうね”、と幻滅するようになっていった。
これも一種の反抗期ってやつと言ってしまえば、そうなんだろう。
徳川家康公御遺訓『人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し 急ぐべからず』 =「人の一生は重い荷物を背負って遠い道を進むようなものだ。 一歩一歩ゆっくりと進むがよい。 急いでは失敗のもとになるものだ。」というフレーズを聞いて、皆様はどう思うだろう?
私は、高校生の頃、このフレーズを知った時、どん底に突き落とされた気持ちになった。
だって、重荷を背負って、進み続けるなんて、苦痛でしかないではないか。
その上、ゴールは、”死”だよ。
何の為にそんなことをしないといけないのだ?
そこに意味を全く感じられなかった。
苦痛を味わうために生き続け、目指すは”死”って、人の一生って、最悪じゃん。生きるって、マジ、意味分からん。
そうは言っても、時間は勝手に流れ、それが人生というものとして、私の肉体は運ばれて行った。
生きている意味や実感を得る為に、結構、思い切った挑戦もしたと思う。
スーツケース一つで、日本を出て、海外で生活する選択をしたりね。
恋愛、結婚、離婚、転職、起業、ニューヨークでアパート購入、売却、などなど、まぁ、自分の能力でできるぐらいは色々やったと思う。
ただ、子供を産むという挑戦には手を出さなかった。自分の人生は自分の責任で済むが、子供の人生を巻き込むことはしてはならないと思うのもあるが、そもそも子供を産める肉体として産まれたものの、一度も、子供を産みたい、欲しいと感じたことがないのだ。母は、「好きな人が出来たら、欲しくなるものよ。」と言っており、私も、”そんなものなのか?そんな気持ちに変わるって、どんな感じだろう?”と、自分観察をし続けた。だが、好きな人が出来ようが、結婚をしようが、全く、自分の気持ちに変化が起きなかった。
欲しいのに出来ないとか、待望の子供に恵まれたものの、子育てで大変、などの悩みが尽きないストレスからは無縁の人生と同時に、生物的本能であろう自分の遺伝子を残すという目的は達成することはなく、つまり、”生きる意味”がそこにあるとすれば、私の場合、やっぱり、生きる意味が分からないままの状態がずっと続いていた。
だが、ほぼ10年前、がんになり、ただ生きているってだけで、嬉しいものだと感じられるようになった。
そして、この最近は、胡桃(愛犬)と同じように、”朝、起きる。ご飯。お散歩。ご飯。お散歩。ご飯。”みたいな生活をしているのだが、ああ、幸せだな、と感じるのだ。
SNSを見れば、友人たちが、”どこで何を食べた。”、”どんなレースに出た。”、”どんな国を旅行した。”と情報が沢山流れてきて、へー、私も食べてみたいなぁ、とか、行ってみたいなぁ、とか思う時もあるけど、その気持ちは一瞬で、あっという間に忘れてしまう。
実際、それをやろうと思うと、面倒臭さの方が先立ってしまう自分がいる。
向上心、好奇心がなくなった、歳を取ったと言ってしまえば、それまでだけど、ずっと、自分を追い立てて、やってきた時代もあり、その結果、ようやくここに到達出来たと思う自分がいる。
犬と同じで良い。猫と同じで良い。
色んな動物たちと同じで良い。
みんな、死ぬまで生きる。それ自体が生きるということ。それで良いのだ。