あの絶望が今の自分を作っている。
人生で一番辛かったこと。
乳がん告知を受けたことより、術後、リンパ転移が見つかったこと。
それなりの時間を生きてきて、傷つくこと、辛かったこと、死にたいと思うほど、思いつめたこともあった。だけど、それが全部吹っ飛ぶぐらいの絶望を知った。何をどうポジティブに考えようとしても、その先にあるのは死しかなく、すべての目の前の出来事が意味をなさなくなる感覚。
そこからどう立ち直ったのか。それをどう乗り越えたのか。
自分ひとりの力ではない。乳がん先輩たちの声、家族や友人の支え、それももちろん大きい。だけど、もしこの二つが欠けていたら、今の私がいるだろうか?とも思うのだ。
ひとつは、犬の存在。
朝起きて、ご飯をあげて、散歩をして、ウンチを取っての繰り返し。どんなに絶望しても、やらないといけない。絶望の沼に沈んでいられないのだ。そして、その犬のその行為は、実は「生きる」ことそのものであり、自分も同じだと気づいた時、「ああ、自分は今、生きているじゃん。」と、心が軽くなった。生きるって、実は単純なこと。誰かに承認されないと満たされないなんてことはないのだ。
ふたつ目は、走ること。
東北大震災で実家が津波で被災した時もそうだった。走ることを知らなかったら、アル中になっていたんじゃないかと思う。つまり、その現実の辛さの逃げ場が必要なのだ。自分の醜く変わった身体、抗がん剤の副作用での手足の痺れ、失ったものはとてつもなく大きく、なのに、がんには完治という言葉はない。真正面から向き合うと、苦しすぎて、辛すぎて、叫びだしたくなる。差し迫る死の恐怖に気が狂いそうになる。
そんな時こそ走った。心は全く走りたくない。だけど、無理矢理、着替え、ランニングシューズを履いた。自分は走りたいんだ、と自分の心に嘘をつき、1歩を踏み出した。1歩、もう1歩と前に足を出し続ける。それを繰り返しているうちに、嘘が本当になっていく。心と身体って、お互い、助け合っているんだなぁ、と思う。
10月は乳がん月間。今年はそんな時から6年目となり、喉元過ぎれば熱さ忘れるじゃないけど、その時の辛さの記憶が随分薄れてきた。だからこそ、忘れないように書くことにした。
辛い記憶は忘れた方が良いかな?
いや、私は転んでもタダでは起きないタイプなのだ。
転んだ時、バタバタもがきながら、地面を見渡した。ちょっと先に見えた”キャンサーズギフト”、これを掴む為、必死で立ち上がった。
そんな私を私は忘れたくない。
だって、これからの人生、絶対、また災難・受難・不幸な出来事が訪れる。そんな時に、あの日の自分を思い出すのだ。そうすれば、絶対、思えるはず。
こんなのあの時の辛さに比べたら、なんてことない。
そして、腹を括るんだ。絶対、今回も乗り越えてみせる、と。