「小説」セントラルパークランナーズ(26歳・X性)#1
あれから(が気になる方は↓こちらから)一馬さんとよくセントラルパークで遭遇し、チャットランをするようになった。
一馬さんは70歳だそうだ。実はそう聞いても僕はピンとこない。55歳の母よりは歳をとっていて、83歳の祖母よりは若いのは分かるけど、父とは僕が9歳の頃に母と離婚して以来会っていないし、母方の祖父は高齢者になる前に亡くなったから、身近なかなり歳の離れた男性とのの接触が人生でかなり少なく、一般的な高齢男性がイマイチ分からない。だけど、そんな僕でも分かる。一馬さんは若い。きっと、ずっと若いんだと思う。こんな人は。
なんでそんな風に思うかというと、一馬さんは、本当にランニングが好きで、ランニングレースが好きで、それに真剣に一喜一憂している。子供みたいに単純に純粋に楽しんでいて、44歳も年下の僕の方が年寄り臭い屁理屈でランニングの定義をこねくり回しているようにように思えてくる。
まぁ、僕がこんな風になったのも理由というか原因はあるんだけどね。
それは遡ること小学生の頃。足の速かった僕は、いつも運動会でクラスのリレー選手に選ばれた。その頃から速く走るのは気持ち良いから好きだったけど、でも、僕より遅くゴールした子たちが悔しがったり、先生たちが、僕が1番でタイムが遅い子がビリという順位付けをするのも理解出来なかった。別に自分はビリの子より優れているとかすごいとか全然思えなかったし、何より遅い子達が意味のない劣等感を感じさせられる自体、嫌だった。そんな価値観の僕がクラスのリレー選手として、戦うってマジ耐え難かった。そんなに相手をやっつけて楽しいか?いや、本当に楽しいみたいだ。僕が、2位で受け取ったバトンを、最後の直線でトップを走る3組の人気者を抜いて、ゴールテープを切った時、あのビリだった子も駆け寄ってきて、まるで自分が勝ったみたいに、「やったぜ!」と喜んでいた。僕だけだった。僕だけが、ポツンと喧騒の中にいた。そして、理解した。僕の方が変なんだ、と。
中学に入り、僕は体育の授業でわざと遅く走るようにした。お陰で、陸上部に入れとかも言われなくて済んだし、妙な注目を浴びることもなくなった。ようやく自由に走れると思った。
そんな過去を経て、今の僕がいる。
そんな僕も流石に25歳を越え、色んな考え方を理解というのか、受け入れることができるようになってきた。最近では、違う考え方、感覚を面白く思えるようにもなってきた。
その上、一馬さんから何度も何度もレースの面白さ、醍醐味を聞き続けた影響か、一生に1度ぐらいNYRRのレースに出てみようか、なんて気持ちさえ湧いてきている。
小学生以来、封印していたレース出場。そう考えると、もしかして、誰よりもレースに拘っていたのは自分だったんじゃないだろうか?
それを確認するためにも、僕は明日、レースに出る。
(つづく)
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