走っていて良かったと思うこと。
愛犬コーディを失くして、1ヶ月が過ぎた。
執筆活動が、中々、進まないのは、書こうとすると、コーディの事ばかりが頭に浮かぶからなのかな。ペットロスは勿論あるけど、飼い主が悲しむと、天国の愛犬も悲しむと言われているから、日々を元気に過ごしたいと思っている。だから、コーディに会いたいなぁ、と思った時、呟くのだ。
「悲しいんじゃないんだ。恋しいんだよ。」と。
また、今回も、つくづく走る趣味があって良かったと思っている。
最初にそう思ったのは、10年前の東北大震災で、石巻の実家が被災した時だ。津波で家屋は半壊、家族は被災、ひと月後、父他界。父の葬儀で、壊滅した石巻に戻り、あまりの悲惨な現実に、脳が認識を拒否する感覚になった。ニューヨークに戻った後、石巻の家族が食べるのも困る生活を送っているのに、自分だけのうのうと暮らしている事に罪悪感を感じ、友人と食事に行ったりが出来なくなってしまった。遊びにいくこともなく、走るぐらいしか出来なくなってしまった。走るのは良い。ひとりだから。泣いたって、誰にも分からない。
走り始めると、色んなことが頭に浮かぶ。涙が溢れ、だらだらと頬を流れるけど、お構いなしに走り続ける。そのうち、苦しくなるけど、走り続ける。こんな辛さなんて、石巻の人たちに比べたら大したことないんだ、と思って足を前に出し続ける。そのうち、息がどんどん上がっていき、頭の中が空っぽになっていく。最後、もっと、もっと、と自分を追い込む。自分に負けたくなかった。自分の予定していたゴールを超えた時、爽快感が全身を駆け抜ける。悲しみは、もう私の後ろに消えている。そんな感覚を覚え、驚いた。身体が心を引っ張っていってくれるのだ。明るい方向へ。
乳がん告知を受けた時も同じ。恐怖に押しつぶされそうになる自分は、走ることで前に進めた。がん治療で走れなくなった時は、歩いた。歩くと、世界が良く見えた。自分が住む世界って、こんなにも美しいんだ、とつくづく感じた。この世界をもっと見ていたい。生きたい、と強く願った。
ただ、足を前に出し続けるというこの単純な行為が、これほどまでに自分の心を救ってくれる。脳が身体をコントロールするものだと思っていたけど、脳(心)が身体にコントロールされることもあるんだ。心と身体、この二つがお互い、助け合って生きている。いや、それにプラス、魂と。
心と身体、そして、魂と三位一体。
それを知った時の僥倖はこの上ない。これが生きるという感覚だから。
きっと、動物たちは当たり前にこの感覚を持っているのかもしれない。
コーディも、先住犬のミルキーも、セントラルパークの鳥たちも。そんな世界の仲間たちと一緒に私も生きている。
さぁ、今日も走りに出かけよう。美しい世界が私を待っている。
きっと、コーディもミルキーも私と一緒に走ってくれている。
※カバー写真は、昨日、走っている途中で見つけた、セントラルパークの今年最初の桜。